青山YURI子さんの連載小説『コラージュの国』(第11回)をアップしましたぁ。主人公の一人であるアンヘラは、『ただ目の前に来るイメージを追っているだけじゃダメよね。このコラージュの結果は何を伝えたいのかしら。わたしたちに・・・。ある二つのイメージは、それが遠くからでも近くからでも、うんと古いものでも最近のものでも、隕石であっても蛇であっても、それらが似たもの同士だからって理由ではなくて、ただ引き合うものであるがゆえに引き合うの。そこには法則がある。1、2、3の国、コラージュの混合機によってどんなポエジーが仕掛けられたのか知らないけれど、この目の前の完成されたイメージの背後に流れる歌を見つけたいの』と言います。この小説のバニシングポイントというか、アポリアでしょうね。
通常の小説作法を破った実験小説的体裁の作品が優れた作品になるためには、強い作家思想の存在が不可欠です。読者は実験のための実験作品に付き合ってくれるほどヒマぢゃないからです。表層に亀裂が、氷裂文が広がるとき、水の下か上では何かが起こっている。それを捉えるのはとても難しい。でも何かが起こっているわけです。それに近接するだけでも作品はある求心力を持つことになります。
このたいていの作家がやらない探求を形にするには、知力だけでなく体力も必要です。またこの方法で一定の成果が得られたら、〝成功体験〟をあっさり忘れる必要もあります。初期に特異な作品で名を上げた作家がたいていダメな実験作家になってゆくのは、当初持っていた強い思想(テーマ)が薄れてゆくにも関わらず、小説のガワ、体裁だけをなぞろうとするからです。つまり過去の成功体験、一回成功したんだから、次も成功するはずだという甘い考えに支配されるから。実験は基本一度限り。別の実験を探すか、あるいは全然違う方向に創作を向ける必要がある。
たとえばピカソは大胆で小心な画家だった。前衛を指向しながら定期的に古典に舞い戻った。パウル・クレーもそう。前衛は考えなしの作家でなければできない面がありますが、いつまでも考えなしだといずれ可能性が尽きるということでもあります。
■ 青山YURI子 連載小説『コラージュの国』(第11回)縦書版 ■
■ 青山YURI子 連載小説『コラージュの国』(第11回)横書版 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■