みなさま夢はごらんになるわよね。でも夢といっても、睡眠中に見る自分ではコントロールできない夢だけぢゃなく、夢想もありますわ。ほら、寝る前に決して実現できない夢を妄想して、なんとなく気持ちよくなってよく眠れるような気がするってアレよ。これってかなり小っ恥ずかしい夢想が多いのよね。いつだったか会社のかわいこちゃんたちと飲んでてその話になりましたの。身長一五〇センチ、推定体重五十七キロってとこのかわいこちゃんは、宝塚大劇場でトップスターの大羽つけて、センターで『モン・パリ』歌ってる自分の姿を夢想するとよく眠れるのとのたまいましたわ。Pリーグ(女子プロボーリングのトップリーグね)でパーフェクト優勝するあ・た・しっ、とチューハイグイッとあおりながら、座った目でのたまわったのはアドミンのかわいこちゃんでしたわ。アテクシ彼女が見事なフォームでガーター投げたの見たことありますわ。彼女のマイボールキープしてあるボーリング場でしたわね。
だけど宝塚やPリーグはだいぶ特殊な夢ね。ほとんどのかわいこちゃんの夢は、ボーイ・ミーツ・ガールというかお姫様願望の夢でしたわ。でもアテクシの会社で生き残ってるのはアラサーかそれ以上っていう女子たちですから、「理想の男なんて現実にはいないから妄想しちゃうのよぉ」という認識はござーます。ムコ選びは現実目線ですけど、そこに至る過程はできるだけ妄想に付き合ってよ、ということでもあるわね。殿方はガーリーな夢をバカにしがちだけど、おにゃの子たちはけっこう賢狡いのよ。結婚後は多かれ少なかれ忍耐しなきゃならないから、結婚前はカレシの忍耐力を試しているようなところがござーますわね。
ただガーリーな夢って、何歳になっても女性が抱きがちな夢よね。何年かに一回ぐらい、日本の宝塚歌劇団の話を小耳にはさんだウブな外国人(男)が、「何でも御存知の知恵子様、宝塚ってレズビアンの巣窟なんでしょーか」と質問しに来ることがあるのよ。「んなわけねーだろ」と脊椎反応で答えますが、けっこう説明しにくいのよね。宝塚歌劇団って実年齢はともかく、精神的にはおにゃの子たちで支えられていますの。劇団はたいてい解散しちゃうけど、宝塚は明治維新以降最も古くてこれからも間違いなく存続してゆく劇団よ。そりゃ中にはレズビアンの役者やお客さんもいらっしゃるでしょうが、九九パーセントはヘテロよ。じゃあ何を見に来るのかというと、簡単に言えば女性の視点から見た対社会理想、対男性理想ね。夢を売る劇団ですけど女性目線だってこと。
ただこういう劇団って世界的にも珍しいのよね。アメリカなんかがモロにそうですけど、ウーマンリブに典型的なように女性であること自体が社会的には階級闘争だったりするのね。ヨーロッパも似たような面があるわ。一九九〇年代くらいまでは、特にアメリカ人女性が「日本の女子ってすぐ〝かわいい、かわいい〟って連呼してバカみたい」って言ってたわよ。今もそう言う女性はいますが、「日本に来るとおおっぴらにかぁわいぃ~って言えるから楽ね」と言う外国人女子も増えたわ。国籍や人種を問わず、かなりの女性の中に「かわいい」に代表されるガーリーな夢(理想)があるわね。
じゃあその本質は何かって言うと、多分ですけど〝無邪気〟ね。邪気がないってこと。そりゃアテクシを含めて社会で働いている女性は多いですから、そんな時は基本的に男も女もないですわ。だけど女性は男性よりも邪気のない子供の状態に戻れる、その気になれば近づけるって特技があるのよ。ジェンダー論者から異論がマグマのように吹き出しそうですけど、それはやっぱり子供を生む性だってことと関係してるわね。またこのテンデンシーは実際に子供を生んだかどうかとは別よ。何歳になっても邪気のない少女の視線で世界を見ることができるの。男がいつのまにか無邪気を失って、社会性が面の皮になっていくのとは違うの。
そういう無邪気な女性――現実には社会性を身につけてるからけっこう強いんですけど――が登場する小説は女性に受けがいいわね。だけど夢想を夢想のまま語っちゃうと嫌らしくなります。邪気にエゴが混じってくるのよね。夢を語る時は要注意ってよく言うじゃない。自分にとってはむっちゃめっちゃ受ける夢でも他人が聞くと白けることが多いでしょ。現実にガーリーな夢想を作品で表現する時は、抑圧と表裏一体でなければ社会性のある作品にならないってこと。潰されちゃう儚い夢だから読者がついてくるんだって言ってもいいわね。
渚詩子はパラソルをおおきく広げたガーデン・プールに座って、少量のビールを柑橘系の香りがする炭酸水で割ったパナシェを飲んでいた。アルコールは体質に合わないのだが、夏の陽盛りには、喉から胸の奥まで涼気が通るパナシェは気分よく飲めた。
(岸惠子「愛のかたち」)
岸惠子先生は言うまでもなく大女優でござーます。さすがにアテクシはリアルタイムで見てないですが、『君の名は』のヒロイン役でスターの地位を不動のものになさいました。内容は古びてますが『君の名は』の岸惠子先生はびっくりするくらいおきれいよ。アテクシ古い映画もよく見ますけど、岸惠子先生と加賀まりこ先生は、こ、これはすごいってくらいの美人ね。岸先生はエッセイが多かったんですが小説もお書きになるようになりました。『わりなき恋』はそれなりによかったのよ。でもねー、「愛のかたち」はねー。
小説の冒頭ですが、「パラソルをおおきく広げたガーデン・プールに座って」でチクッと来ませんか。アテクシは来たのよ。ハイソな有閑マダムかキャリアウーマンのお話だってことはすぐわかりますけど、現代とは決定的にズレてる気配が漂ってるのね。はっきり言えばプロパーの小説家ではない岸先生に、それを戦略的に活用する技量はないだろうってこと。
「取り乱した君も、甘えん坊の君も大好きだよ。はじめはただ憧れていた君に恋をして、おまけに本物の愛が分け入ってきた。詩子さん、君を愛してるんだ。ただ今は、この愛に埋没したくはない」
初めて聴いた。愛という言葉の入ったフレーズだった。
「東京へも、ロンドンへも将来的には事務所を持ちたいと思っているよ。いいスタッフも物色中だ」
「なぜそれを先に言ってくれなかったんだ!」
詩子は海斗の腕の中でばたばたと海斗の胸を打ちながら暴れた。
駄々っ子のような仕草の中で「ただ今は、この愛に埋没したくはない」と付け加えられた一言が胸に刺さった。
(同)
アテクシ読みながら思わず「うぅっ」と呻きましたわよ。粗筋を紹介してないのでなんのことかわからないと思いますが、主人公の詩子はグローバル化粧品会社のキャリアウーマンで、フランス支社で働くうちに日系フランス人で弁護士の海斗と恋に落ちるわけね。で、詩子の親友にアンヌとアラン夫婦がいて、海斗はアンヌと義姉弟なわけ。またアンヌ・アラン夫婦には、養子ってことは秘密だけどマテューという気立てがよく頭のいい息子がいて、その人間関係の謎解き+事件で物語が進んでゆくわけですわ。でもこの小説ではそれらはあまり重要じゃないわね。
「愛のかたち」の登場人物たちは誰もが常識的で優しいのよ。中でも主人公の詩子は純粋無垢な少女という雰囲気の女性なんですが、彼女の無垢を壊れ物のように包み込む形で海斗が愛してくれるのね。ん~どうよ、ってあぐらかいて凄みたくなるわね。読んでいるうちに、大女優岸惠子先生へのアテガキ小説だけど、ここまで杓子定規なアテガキする作家も脚本家もいないわよねーと思ってしまいましたわ。つまり読んでてかなり恥ずかしいわけ。正直言うと、寝る前に見る自分一人だけには心地いい夢想を読まされてる感じがするわねぇ。
詩子さん。
ぼくはいったんパリへ戻ってマテューの悲願を、達成したいと思っています。ここぞ弁護士としての腕を振るって!
ラフォン家の邸宅その他、全財産を処分して、その全額を、アフリカや中東にあふれる難民や孤児のために寄付したい。というのがマテューの願いです。
「焼け石に水かも知れないけれど・・・・・・」と小さい声で言ったマテューはこう続けました。
「僕も孤児だった。それを大事に育ててくれたパパとママンへのこれがぼくにできる精いっぱいの恩返しだと思うし、ぼくのようなしあわせに恵まれない子供たちへのささやかな気持ちなんだ」
(同)
アンヌとアラン夫婦はスキー場で雪崩に巻き込まれて死に、ショックを受けたマテューは国際ボランティア団体の職員となって貧しい地域や紛争地帯を飛び回り、両親の財産を恵まれない子たちのために全額寄付する、と。アテクシ「だあっ」と叫び始めて止まらなくなり、しまいには「だあっの159乗っ」と後は省略してしまひましたわ。
言っときますけど岸惠子先生を馬鹿にしたりしてるわけじゃありませんことよ。だけど岸先生、底の底まで追い詰められた経験がございませんわね。実生活では離婚など辛い経験もなさっていますが、エセーなんかを読んでも大女優岸惠子に誰もが遠慮してる気配がありますわ。実体験の裏付けのない小説を書くと、それがホントに観念流れちゃうのね。
ただこれもアテクシの本音ですけど、岸先生を心の底からうらやましいと思います。誰も傷つけることができない本物のスター様よ。殿上人って実在するの。良い悪いの問題じゃなくてそれが岸先生のあり方なの。「愛のかたち」という小説についてはなんだかなーと思いますが、もしご本人にお会いしたらすぐ大好きになっちゃうような素敵なお方ね。そういったスター岸惠子先生を前提とすれば、「愛のかたち」を甘美な少女小説として読める読者もいるわね。
佐藤知恵子
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