池田浩さんの文芸誌時評『No.025 三田文学 2018年春季号』をアップしましたぁ。石川は古い編集者でありまして、活版職人のオジサンが『今地震あって版崩れちゃったんだ。も一回校正してくんねぇか』と出張校正室に飛び込んで来たような時代から編集の仕事をしています。活版、電算写植、DTPの時代全部に関わったんですね。で、今はWeb文芸誌の文学金魚の編集人です。年取るわけだ。
ネット時代になって文芸誌にWebという新たなメディアが加わったわけですが、紙媒体と変わった点と変わらない点があります。変わった点といってもそれは精神のことで、物理的質のことぢゃありませんよ。石川は文学金魚で初めてWeb文芸誌の編集に携わったんですが、まず実感として思うのは、紙とWebメディアの両立はムリということ。紙の文芸誌の編集もいくらだってやれますが(紙もWebも下作業はほぼ同じ)、魅力を感じなくなった。紙文芸誌をやっていると、この実感はわかんないと思います。でもWeb文芸誌をやり始めれば、石川が何を言わんとしているのかわかるはずです。
まずスピード感が全然違う。また基本的には紙雑誌のようなページ数制限(容量)に悩まされることがありません。石川は文学作品に編集者が手をかけていいものができるのか、前々から疑問でしたが、文学金魚編集人になってから解答らしきものを得ました。手をかけても飛躍的に良くなることはない。むしろ編集者がダムになって作品発表を止める方が有害。作家に次々発表してもらって、編集者の反応を含めて世間を感じる方が大事です。世の中の反応を肌身で感じ、その敷居を越えることの方が作家にとっては大切です。ただそれだけがWeb文芸誌と紙文芸誌の違いではありません。
紙媒体って達成感があります。雑誌一冊を校正して印刷して出来上がってくると、仕事をやり遂げた気分になる。だけどこの〝達成感〟がくせ者。何を達成したのかということです。編集者にもノルマや自我意識があるわけで、売れる雑誌を目指します。週刊誌やファッション誌ならそれは当然。だけど文芸誌は違う。編集者はノルマと自意識を行使して特集などを組みますが、本気で付き合ってくれる作家は一握りです。いわゆる編集マジックでそれなりの誌面にする。昔村上春樹さんが『ユリイカってちゃんと読まないけど捨てられないんだよね』と言っていましたが、それが編集マジックです。ただちゃんと頭から尻尾まで読めば、優れた作家の一冊の○○論にはかなわない。つまり編集マジックでよくできた雑誌になってもそれは編集者の自己満足という面が大きい。
つまり編集者は売れる雑誌を作りたいわけですが、作家は必ずしもそうじゃない。作家は自分の作品の発表場所の確保以上に、本が出ることが最大の目標です。雑誌に掲載されるので満足なら、作家ではなくフリーライターの雑文書きと変わらない。だから編集者を長くやっていると、だいたい『使えねぇ作家が多いな』になってくる。編集者と作家の間には常に利害の対立があるわけです。文芸誌や本が売れていた時代にはこの対立はいい緊張感を生んでプラスに作用していました。だけど今は編集者が笛吹けど踊らず、作家は踊ってやったのに結果が出ないという悪循環になりつつある。
要は何を〝達成〟と見なすかということ。雑誌を達成と設定すると、月ごと、あるいは季刊ごとの物理的雑誌が意識の大半を占める。しかし単行本を達成と見なすと雑誌は通過点になる。もちろん紙だろうとWebだろうと読んでもらえる文芸誌を目指すのは一緒なので、両者の達成感が完全に一致することはありません。ただWeb文芸誌は紙で文芸誌を作るという物理的〝達成感〟がない分、編集者と作家の利害対立が薄まります。雑誌→単行本の流れではなく、単行本→雑誌の流れに自ずから精神が切り替わる。
雑誌を売るのが目的になったのは大正時代頃からです。当たり前ですが、元々の文芸誌の原点は雑誌を通して優れた作家、作品を輩出することにあった。そこに意識を戻した方がいい時代になりつつあると思います。そのくらい、特に純文学のマーケットは小さくなっています。雑誌は軒並み赤字で、本の売り上げもかつてのような活況を呈することは今後ないだろうと石川は見ています。Web文芸誌に関わると、雑誌のと単行本の〝違い〟が際立って実感できます。感覚的に言うと〝どんな本を選択して出版するのか〟の感覚が研ぎ澄まされる。
これは編集者だけでなく、著者も実感することになるはずです。今のところ雑誌ストレージとして保存されないWeb文芸誌に書けば〝本〟を強く意識せざるを得ない。そうでなければ何も〝達成〟されたことにならないからです。つまり本が出ること、売れること、市場に受け入れられるということが著者にとっても大事になる。それは著者の意識を変えてゆく。
Web文芸誌になっても変わらないことは、雑誌はやはり編集長の裁量で運営されるメディアだということです。なにが売れるかも含めて雑誌の編集方針を決めにくい時代ですが、合議制は必ず失敗する。結局〝誰かのヴィジョン〟に賭けるしかない。編集長が交代すれば自ずから雑誌の性格が少し変わるというのはそういうことです。雑誌には創刊当初からのアイデンティティが抜きがたくありますが、その実現方法は複数ある。ある編集長のヴィジョンがうまくいかなければ交代ということです。皆で決めても拡散するだけです。
三田文学さん、一時期のキリスト教的臭みは薄れましたが、実質的に合議制編集になったように見えます。しかしこれは同人誌よりタチが悪いかも。同人誌はたいてい合議制を採るわけですが、著者たちが未熟だから結局は角突き合わせて衝突する。そして最終的に空中分解して著者たちが一皮剥けるのが最大の醍醐味です。しかし大人が集まって合議制を採るとどうなるか。大人の配慮で摩擦を減らしてそれぞれが割り当てページで好きなことを始める。それをまとめるために新聞などではデスクに強権を与えるわけですが、ぬるい合議制だと同人誌より弛緩する。雑誌編集人による自画自賛など、まあプロがやることぢゃないね。
■ 池田浩 文芸誌時評 『大学文芸誌』『No.025 三田文学 2018年春季号』 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■