岡野隆さんの『詩誌時評・句誌』『No.089 特集「鑑賞力を鍛える~〝読み〟の分かれる名句」(月刊俳句界 2017年10月号)』をアップしましたぁ。今回は面白い議論ですね。俳句における〝詩的要素〟と〝詩〟との関係性です。詩的要素と詩がイコールではないのは短歌や自由詩も同じですが、俳句には特殊な面がある。
岡野さんは『芭蕉の「古池」が俳句の出発点で普遍的原点だとすると、俳句は本質的に、内容的にも技巧的にも平明なものであってよいことになる。俳句がその意味などを、言葉で全部説明できる平明な表現であるならば、当然レトリカルな技巧は不要なものとして極力排除される。いわゆる有季定型写生俳句の成立根拠だ。しかし平明――つまり「古池」的な最小限度の詩的要素で構成しても、俳句は誰もが認める詩としてなかなか飛躍してくれないのである』と批評しておられます。
俳句は実に難しい表現です。明治維新以降の文学は基本的に自我意識文学であり、現代俳人もまた強い自我意識を持っている。ところが俳句は本質的に非自我意識文学だという特徴がある。それは現代性に激しく逆行するわけで、しばしば目にする大物俳人の狂気のような大先生的傍若無人ぶりは、俳句に多くの精力を注ぎ込みながら、そこで自我意識を十全に発揮できないことへの代償行為ぢゃないかと石川は見ています。一般社会なら物笑いの種になるような人種だよ。
俳句はある意味〝余裕の文学〟だと石川は思います。余裕の文学というのは、必ずしも余裕ぶっこいて俳句を詠むことではありません。鬼のように俳句に没入していていいわけですが、現代社会・現代文学の大きな評価基準であり、文学的立身出世の指標である自我意識の苦しみから可能な限り解放されている作家が、俳句文学の頂点に立てるんぢゃないかという気がします。余裕をもってエゴの塊である現代社会を見下せる心性ですね。
俳句に一生懸命の作家は、結社主宰から若手まで苦しんでいる気配がある。結社内だけでずっと和気藹々としているのは不幸なことですし、外に出て、他の文学ジャンルでは考えられない些細な違いで角突き合わせ、それを表面的に押し隠して俳句万歳と言っているのも不幸です。人は楽しいことにしか基本興味を持ちません。俳壇で楽しそうなのは初心者だな。有名無名を問わず、プロを自称している俳人は軒並み不満げな顔をしている。だけどそれってやっぱ、中途半端に俳句に関わってるからだな。俳句は大変。日本文学で一番難しい。あらゆる側面から俳句文学を考え抜かないとダメだと思います。
■ 岡野隆 詩誌時評『句誌』『No.089 特集「鑑賞力を鍛える~〝読み〟の分かれる名句」(月刊俳句界 2017年10月号)』 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■