今号の「鑑賞力を鍛える~〝読み〟の分かれる名句」は、俳句と詩の関係を考えるのによい特集だと思う。難しい理屈を並べてもしょうがないので、できるだけ平明に考えると、詩は〝詩的要素〟から成り立っている。じゃあ詩的要素とはなんぞや?ということになるが、これはその気になればいくらでも分類して羅列することができる。
「月」や「桜」という単語を、少なくとも日本語では詩的要素を喚起する言葉に分類することはできる。五七五に季語という形式も、俳句にとっては詩的要素である。隠喩や直喩、切れ字なども詩的要素に数え上げることができる。ただ多くの人が、詩と詩的要素はイコールではないと考える。確かに詩作品は存在するが、それを構成する詩的要素は曖昧なのだ。
だから詩的要素とはなんぞや?という問いに答えようとする者は、大多数の読者が「これは立派な詩作品だ」と認知し、歴史の風雪にさらされながら名詩として残ってきた作品から帰納的に詩的要素を抽出しようとする。しかし何を抽出するのかはバラつきがあり、必ずその人の主観が入り交じってしまう。言語学的に作品を分解していっても誰もが納得する答えは得られない。詩的要素が詩として認知されるためには飛躍が必要である。
加えて俳句は日本独自の歴史的経緯を持っている。どの国・民族でも文学はまず歌(リズムなど音的要素を含む)と物語の混交として生まれた。短く意味的にも飛躍の多い表現なので、初期文学はたいてい詩と呼ばれる。それが時代を経るに従って、演劇、小説などの文学ジャンルへと分化してゆく。日本の和歌は典型的な道筋を辿って物語や演劇などの母体になったわけだが、俳諧は明らかに和歌を源流としながら近世になって似て非なる表現として成立した。
この俳句の始まりは、短歌とは違いはっきりその時期を特定できる。松尾芭蕉の登場と同時であり、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」が現代にまで続く俳句文学の端緒である。この俳句の始まりは何人も動かせない。ただ「古池」が俳句の始まりであり、その定義ともなる絶対基盤だとすると、俳句の詩的要素はレトリカルなものではないということになる。
「古池や蛙飛び込む水の音」は、意味的には散文描写である。「古い池にカエルが飛び込んだ音がした」、それだけだ。隠された意味は一切ない平明表現である。五七五の音数と「や」の切れ字が詩情を醸し出しているとは言えるが、それを詩的要素として抽出しても「古池」が優れた詩であるという説明としては説得力に欠ける。
また「古池」が俳句の出発点で普遍的原点だとすると、俳句は本質的に、内容的にも技巧的にも平明なものであってよいことになる。この原点的基盤は、現在に至るまで俳句に大きな影響を与えている。「古池」が現在の俳句人口一千万人と言われるポピュラリティを生み、一方で俳句創作の現場を大変息苦しいものにしている。
俳句がその意味などを、言葉で全部説明できる平明な表現であるならば、当然レトリカルな技巧は不要なものとして極力排除される。いわゆる有季定型写生俳句の成立根拠だ。しかし平明――つまり「古池」的な最小限度の詩的要素で構成しても、俳句は誰もが認める詩としてなかなか飛躍してくれないのである。
五月雨の降りのこしてや光堂
――『おくのほそ道』岩手県平泉中尊寺金色堂を詠んだ句です。『おくのほそ道』屈指の名吟ですね。この句は、
①五月雨が降り、光堂だけ降っていないようだ。
②五月雨が止み、光堂だけに雨が降っているように輝いている。
③何百年の間、光堂だけ五月雨が降らなかったようだ
という三つがあると思います。
堀本 河合曽良の『随行日記』はこの日は晴れなんですね。この句は芭蕉が嘘をついて、「光堂」を純化させ普遍的にするために五月雨を降らせた、と考えました。初案では〈五月雨や年々降りて五百たび〉。全然出来が違うんですよ(笑)。(中略)初案では「五百たび」と「五月雨」をかけ、「降り」(ふり)は「経る」「古る」にかかっている。かなりテクニカルなことをやっている、と思いましたね。(中略)ですから私は「五月雨が降り、包まれるように光堂がある。包まれているけれど雨粒を跳ね返すように光堂は燦然としている」と考えました。
(大輪靖宏、田中亜美、堀本裕樹木座談会「討議 古今の名句の〝読み〟」)
特集では大輪靖宏、田中亜美、堀本裕樹木さんによる「討議 古今の名句の〝読み〟」が掲載されている。名句の読みを今一度検証してみようという企画だ。芭蕉俳句が取り上げられているが、「五月雨」の一般的解釈は編集部の挙げた①で、「五月雨が降り、光堂だけ降っていない(ように輝いている)ようだ」である。実際堀本さんの解釈(読み)も結論としてはそうなっている。
ただ俳句の世界では編集部が例示したように、一つの俳句作品について、考え得る限りの解釈を検討してみるのが普通だ。いわゆる評釈である。この評釈は、簡単に言えば詩である俳句の徹底した散文読解である。また曽良『随行日記』によって、「五月雨」の初案は「五月雨や年々降りて五百たび」でテクニカルなものだったことが知られている。芭蕉はそれを定稿の平明句にまで推敲したわけだ。じゃあ俳句は技巧を排した平明一辺倒の表現でいいのかといえば、そうとも言えない。芭蕉その人が懐の広い表現をいくつも残している。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
――この句はご存じ『おくのほそ道』東京千住の旅立ちの句です。読みがいくつかあるというより句自体がわかりづらいのですが、どのように解釈すべきでしょう。
大輪 「行く春や鳥啼き」までは普通なんですね。「魚の目は泪」が何だろう、となるわけです。千住に朝市が立ち、その魚の目を詠んだという説もありますが、そういう写実句とは考えたくない。別れを惜しみ木々の鳥が啼き、川の魚も泪を浮かべている、という抽象的非現実句だと思います。旅立つ芭蕉と空が「鳥」、見送る門人が「魚」と見立てる解釈もありますが、そこまで考えなくても別れの悲しみを春を惜しむ気持ちと重ね合わせていると考えます。
(同)
「行く春」の句に関しても、一般的な解釈は大輪さんがおっしゃるような「抽象的非現実」に落ち着いている。自由詩の詩人なら最初からすんなりシュルレアリスティックな詩として受け入れるはずだ。ただ最終的には「抽象的非現実」表現として受け取る以外にないとわかっていても、「旅立つ芭蕉と空が「鳥」、見送る門人が「魚」と見立てる解釈」をしてみなければ気が済まないのが俳句である。「古池」を俳句原点とすれば当然のことだ。意味的に謎がなく、しかも詩であるのが俳句本来の姿だからである。
しかし芭蕉の「五月雨」と「行く春」の句に表現されているように、俳句には大別すれば二通りの表現方法がある。詩として簡単なのは、実は後者の「行く春」の方である。少し乱暴な言い方になるが、詩は本来的に「抽象的非現実」表現である。人間の生死、自然の脅威、不可解な人間社会の軋轢など、詩はちっぽけな人間存在(自我意識)を越えた力を嘆き、悲しみ、時に喜び、その原理を明らかにするために書かれ始めた。一般の読者は詩というと〝わけのわからない表現〟だと感じる傾向があるが、それは正しい。
大輪、田中、堀本さんの座談会では山口誓子の「つきぬけて天上の曼珠沙華」も検討されている。このような句(表現)は典型的に古い意味での詩的表現である。詩には自我意識を越えた力(神的意思と言ってもいい)を探る役割があり、それが現実事象を越えた言葉の組み合わせになる。芭蕉の「行く春」もそうである。
これも単純化して言えば、詩人は現実表層から自己(あるいは人類)の無意識的言語層へと精神を下降させてゆく。そこで現実世界とは別の機微で言葉と言葉が出会い、組み合わされる。ピタリとはまれば意味的には不可解でも、読者(受け手)はある本質が表現されていると直感的に感受することができる。そのシステムをきちんと説明するのは手間だが、心理学などを援用すればある程度までは詩の生成システムを説明できる。
ただ問題は「古池」や「五月雨」のような句だ。意味的にも修辞的にも謎がなく、しかも詩である表現のことである。またこういった表現が俳句独自の詩の姿である。それゆえ俳人たちが有季定型写生を主軸とする理由は十分肯定できる。ただこの表現の生成システムを解明し我が物とするためには、有季定型写生を〝型〟として繰り返してはいけないのである。
俳句が詩である以上、その独自性は詩本来の生成理由である「抽象的非現実」との対比によって初めて明らかになる。芭蕉は「俳諧自由」と言ったが、定型を重視すればするほど俳句文学は堕落する。現に芭蕉をなぞった蕉門は、じょじょに模倣を繰り返し弱い表現に陥っていった。
重信的前衛が素晴らしいと言っているわけではないが、俳句はその独自の本質を際立たせるために、常に前衛的試みを必要としている。もちろん俳句本来の姿を無視して、ひたすらに「抽象的非現実」表現に赴くのはお勧めできない。そういう俳人は一種の現代詩的表現の密輸業者となり、一時の新し味は喚起できてもすぐに作品が行き詰まってしまう。難しいところである。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■