大野ロベルトさんの連載映画評論『七色幻燈』『第二十三回 男色と女色』をアップしましたぁ。クロード・ルルーシュ監督の『男と女』を取り上げておられます。古典的名作であります。大野さんは『フランス映画にしてはあまりに素直な、純粋に過ぎるほどの筋書き』と批評しておられますが、そうですね。色の使い方がうまい映画であるのも大野さんの批評通りです。こうやって映画文法は作られていったんだなぁ。
んで大野さんは『ルルーシュ自身は、「男と女」にカラーとモノクロームが混在するのは、単に予算の制限のためだと述べている。本来は白黒映画になるはずが、アメリカの配給会社から追加予算が出たので、屋外のシーンではなるべくカラー・フィルムを使ったのだという。だが建物の内外と色彩の有無の関係は一定ではないし、「男と女の詩」(1973年、仏・伊)などの作品を観ると、なおさらこれは韜晦であろうと思われる』と書いておられます。
映画って不思議な芸術で、潤沢な予算があればいい映画になるのかと言えばそーでもない。ハリウッド映画のように、石橋を叩いて〝当たる〟ように作られた作品は別ですけんど。美男美女の今一番人気の俳優さんを使って大規模なセットを組んで、数回はどんでん返しのあるシナリオにすればヒットする確率は上がります。問題は芸術性が高いと評価された監督に予算がついた場合であります。
カーウァイが典型的ですが、低予算の方がいい映画を撮っていた監督は意外と多いです。もち監督ですからルルーシュ御大も予算配分に気を遣ったでしょうが、もしかすると追加予算で部分的にカラーにできるようになったってのはホントかも。映画の現場ってホントに場当たり的です。監督さんは数々のハプニングをプラス方向に導いてゆくんですな。そこが作家の一存で基本的には様々な要素を変えてゆける文学とは決定的に違うところです。
■ 大野ロベルト 連載映画評論 『七色幻燈』『第二十三回 男色と女色』 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■