青山YURI子さんの連載小説『コラージュの国』(第09回)をアップしましたぁ。『私たちの街は、きっとおそらく君たちの出身地では指標といわれる東西南北の代わりに、町の楕円形の上に時計針を想像して方角を定めているんだよ。例えば、これから私たちの行くのは8時の方向、詳しく言えば、8時42分の方角に僕の家はあるんだよ。そして住所も、8時42分、16秒丁目、3軒目、となっているんだ』といった記述はvery青山さんですねぇ。まぜこぜなんだけど具体的。ビジュアルと観念が混在しています。
青山さんの小説を読んでいると、こういったタイプの小説は若い頃でないと書けないし、完成させられないかもねぇと思ふところがあります。文学は知的作業ですが、知性は肉体によって支えられている。通常の小説オーダーと違うタイプの作品を書こうとすると、激しく体力を消耗します。高いと言っても変わってると言ってもいいんですが、自ら人とは違うハードルを設定した以上、それを越えてみせなければなりません。ただ簡単に越えられるなら過去に誰かがやっているわけで、作家は絶対絶命の位相に置かれる。これを突破するためには知性だけではダメで、ある種の肉体的力が必要になります。
長いこと文学に携わっている人は、文学は体力勝負だということがだんだんわかってきます。書くのが当たり前の生活になると、文学は肉体労働に変わるんですね。でも若い頃と年取ってからでは体力の使い方が違う。若い頃は一回一回強行突破です。それをやっているうちに突破方法がノウハウ化しますから、年取って肉体が衰えても体力を温存して作品を量産できるようになるわけです。
稀にですが〝降りてくる〟書き方をする作家がいます。何かが(誰かでもいいですが)降りてくるような感覚で作品を書くわけです。よく『詩神が降りてきた』とかのんきな嘘を言う詩人がいますがそれとは違います。降りてくるのを待ってたんじゃプロの作家じゃない。降ろすわけですが、それをやるともの凄く体力を消耗する。具体的には精神を総動員して意識と無意識のあわいから文章を紡ぎ出してゆく方法です。観念に流れるとたいてい失敗する。具体物を基盤に抽象に登り具体に降りてくる。着地が決まるかどうかは賭けですね。ただ足腰がしっかりしていて、つまり体力があればなんとか踏みとどまることができます。失敗してもその規模が大きければ読者を感動させられます。
■ 青山YURI子 連載小説『コラージュの国』(第09回)縦書版 ■
■ 青山YURI子 連載小説『コラージュの国』(第09回)横書版 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■