平和な時代って、表面的には男より女の方が目立つしキャピキャピしているかもしれませんわねぇ。アテクシも楽しみが多い方ですから、オフの日も忙しく走り回っておりますの。美容院やエステに行くのは当然ですけど、面白そうなら美術館や映画館、劇場なんかにも足を運びますわ。いつも感じるんですけど、女性が多いなぁって思います。殿方っていうより男の子たちは、女の子とのデートの一環として来てるって感じだし。男たちっていったいなにしてるんでしょ。スポーツ新聞読んでお酒飲んでっていう平日の生活を、お休みの日も実践してらっしゃるわけじゃないわよねぇ。
アテクシ古い人間ですから、戦後の日活青春映画やヤクザモノ全盛時代をうっすら覚えておりますわ。当時は男っぽい男のエンタメ作品がおおござーましたわね。今考えると、やっぱり戦争の影響が残ってたんじゃないかしら。将来はわかりませんけど、当時兵隊さんにとられたのは男よね。その非常に苦労した世代で生き残った人たちと、彼らの苦労を知ってる人たちが高度経済成長を支えたんだわ。男って感じのヒーローがエンタメの中心になったわけよね。
だけど二十一世紀に近づくにつれ状況が変わっていきましたわ。一九八四年公開の宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』あたりがターニングポイントじゃないかしら。それまでも女の子を中心にしたエンタメはありましたけど、コミカルなキュートさがウリでしたわ。でもそんなキュートさを残しながら、全世界を背負って立つようなヒロインが描かれたのは『ナウシカ』が初めてだったような気がしますの。女の子たちが喜んだわけよね。
で、これが男の子たちに不評だったかというと、そうじゃありませんわ。アテクシの部下にも宮崎駿世代の男の子たちがたくさんいます。ちっちゃい頃、子守が面倒なので、親が宮崎監督のアニメをテレビでループで流して食いつかせていた世代ね。お酒の席なんかでアテクシと同世代か上の人が、「宮崎アニメのなにが面白いんだね」と言うと、男の子たちは「宮崎監督の悪口はダメです。彼は神です」って据わった目で言ったりするの。ある時代精神が染み込んでるのよ。
今続々と女性的な感じのするこぎれいな男の子たちが、テレビなんかでスターになり続けていますけど、エンタメでは大事件より小事件の方がうける時代よね。殺人とか暴力といった決定的事件よりも、多くの人たちが、世の中を底辺で動かしている力の方に引きつけられてるみたい。男が主人公か女が主人公かに関わらず、社会全体から見ればささやかでも、日常では大事件で、なにかをズルリと変えてしまうような小事件の方が切迫感が高いのよ。ある意味女性(性)の時代って感じることがござーますわ。
じゃあ男に元気がないのかっていえば、そうとも言えないわね。ただ文化の領域よりも、実社会での方が男の不気味さとか強さが目立つ時代ね。アテクシは純文学から大衆小説まで読みまくっていますけど、時代精神を捉えているなぁって感じる男性作家様は数人しかいらっしゃらないわ。たいていの男性作家様は今までの制度に乗っかってお仕事をされていると感じます。それもまた男のあり方よね。どんな場合でも、社会性が先に来るのが男って生きものの特徴だと思うわ。だけど新しい時代の新しい精神を、文化領域の男たちは捉え切れていないって感じるわね。
実業の世界で、ちょっとビックリするようなムチャをするのは男が多いです。昔からそうだったって言われればそうなんだけど、投機のあり方が一昔前とはガラリと変わってますの。百万円の元手を持っている人が百人いて、本格的に投機的事業を始めれば、そのうち数パーセントが何年後かには億単位の財産を築けるのが今の時代よ。億の資産と言っても、三億から五億が一つの敷居ね。このレンジだとたいてい含み資産が大半を占めて、借入金の額も資産とどっこいってことが多いから、キャッシュフロー的にはたいしたことありません。弾けるリスクも高いですわ。だけどそれを超えて二桁を超えると違ってきます。そんな個人資産家が、昔と比べればすんごく増えてるの。
そういった個人資産家の男は思いきりがいいのよ。でも今は昔みたいに博打を打つ人は成功しないわね。見通しよ。ある見通しが、ある瞬間に見えちゃう時代なの。それを捉えると資産家への道が開けるって言えるわね。そういう男たちって、文化領域の、たとえば作家様を基準にすると知性も低いし面白味もないと思いますわ。だけど男らしいのよ。マッチョイズムってことを言ってるわけじゃもちろんござーませんわ。観念の高さよ。
男と女っていうより、男性性と女性性ベクトルって言った方がいいと思いますが、男性性の特徴は観念の強さですわ。ある見通しというかヴィジョンを捉えると、あきれるほどの高みにまで、すんごい短期間でスーッと昇っていきますの。あれよあれよって感じよ。その観念の高さを現代の個人投資家は持っていると思います。ある意味〝現代の時代精神としての知性〟ね。それは文学者先生の旧セオリーの知性とは全然別物ですけど、現代の本質を衝いている知性よ。
今のチマチマした心理葛藤がうける時代状況は、実業的時代精神の対局にあるとも言えるわね。文化領域では一方の極の男性的観念の高みをうまく捉え切れていないので、女性性全盛時代に見えるのよ。実社会に即せば、現代は文学どころの時代じゃないってのは、そういうことでもありますわ。小説に限定すれば女性作家様の方が有利な時代って言ってもいいんでしょうけど、やっぱり男性性と女性性の異なるベクトルが円を描くようにならないと、時代を代表するような文学作品は生まれないでしょうね。
最初、わたしたちは四人だった。
わたしと環と麻美と恵奈の四人。わたしたちは太っても痩せてもなく、目立って愚図でも飛び抜けて優秀でもない普通の女の子で、大学までエスカレーター式の私立の中等部で出会った。
(千早茜「卵の殻」)
千早茜先生の「卵の殻」はいわゆる女モノ小説でございます。中学時代からの女友達四人が出てきますが、中心になるのは主人公遼子と恵奈の関係ね。元同級生たちは三十歳にさしかかろうとしていますから、人生がばらけ始めているのは当然よね。遼子と恵奈がほかの二人よりも仲良しなのは、今現在の環境が似ているからでもあるわ。時々「友達バンザーイ、仲間サイコー」って言ってる人がいるけど、それって過去の絆の強さよりも、今現在の事情の反映ってことが多いわね。
遼子には彼がいて結婚間近です。というか彼を逃したら婚期が遅れると愛と打算の中で揺れ動いています。でもそれがテーマじゃありませんことよ。遼子は彼と話しながら「これだから、本当のことは男には話せない。(中略)ああ、面倒くさい。わたしが素の顔を見せられるのは恵奈たちの前だけだ」と思います。女友達との結びつきの強さが描かれているわけですが、そう単純なものではありませんことよ。女なら遼子の心の声が、男との関係とはまた違う、十分にメンドクサイものだってことを知ってます。
ずっとずっと一緒だから、恵奈の仕草も喋り方もよく知っている。服もメイクも、ぜんぶ。わたしは簡単に恵奈になれる。恵奈の気持ちだって誰より知っている。だって、親友なのだから。(中略)
夫ができたら夫の愚痴を言い合い、子どもができたら相談をし合いながら、わたしたちはずっと友達でいられる。
女の友情はもろいから、ちょっとした環境の違いでひびが入るから、こうやって同じように進んでいくのが一番正しい道。そうしなきゃ、一人ぼっちになってしまうから。
(同)
このモヤッとした終わり方は女性作家さまの独断場ねぇ。女はだいたいおしゃべりが好きで、自分の生活なんかをさらけ出しますけど、それは当然、相手の女の告白を聞くことにもなります。それが女同士の秘めやかな部分も含む友情になってゆくわけですが、別の側面から見れば一種の相互監視としても作用しますわ。飛躍は禁物なの。「女の友情はもろいから」同じレベルで進むか、同じレベルの友達を見つけなきゃ友情は続かないのよ。
このとっても女性的と言える心性は一つの社会的基盤ね。現代的問題に置き換えると、貧富の格差を嫌う心性にちょっとつながりますわ。でも千早先生は「卵の殻」では描かなかったですが、いつまでも同じで一緒なんて幻想よ。その幻想崩壊がほのめかされてるから「卵の殻」はモヤッとした秀作なの。
貧富の格差なしってのは確かに理想ですけど、それは政治マターよね。個々の人間は富めるか貧しいか、極端を言えばどちらかしかないの。千早先生のお作品に即せば「一人ぼっちになってしま」った時から現代的な男性性ベクトルが作動するの。そして一人ぼっちでいられるのは女性性基盤とは別の、現代的観念ベクトルを掴んでいるという実感があるからね。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■