岡野隆さんの『詩誌時評・句誌』『No.079 特集「夜半と比奈夫~「諷詠」四代の伝統」(月刊俳句界 2017年04月号)』をアップしましたぁ。「諷詠」は後藤夜半が創刊し、後藤比奈夫さん、後藤立夫さん、立夫さんの娘の和田華凜さんと四代にわたって引き継がれている結社誌です。高濱虚子の子孫によって継承されている「ホトトギス」など、俳句界には血縁者によって続けられている俳句結社がけっこうあります。
たいていの場合、結社創始者は俳人としても人間としても魅力的です。ただとっても言いにくいことですが、結社員の数が物を言う俳壇で、血縁者によってある俳風が受け継がれてゆく俳句の世界の現実には問題がある。表向き、俳人たちは口を開けば俳句は作品の良し悪しによって公正に評価が決まる、小説や自由詩となんら変わらない文学だと主張するからです。しかし死後評価はともかく、俳人たちの現世評価についてはまったくそれは当てはまりません。しかし俳句の世界では世襲でなくても高弟らによって、これからも大結社がある利権圧力団体として受け継がれてゆくだろうと思います。それが俳句の世界の現実です。批判してもしょうがない。
俳人にとっては〝俳句は(俳句こそが)文学である〟ということになると思いますが、現代日本と世界のスタンダードである自我意識文学を基準にすれば、〝俳句も文学の一つである(俳句も文学には違いない)〟ということになります。桑原武夫の俳句第二芸術論のような認識になってしまうわけですが、現代文学をスタンダードにすれば当然です。ただいわゆる俳句第二芸術論に対する俳人たちの反発は、方向的に間違っていると思います。
俳句第二芸術論に対して〝俳句は文学である〟と反発すると、俳句は現代自我意識文学の要件を満たさなくてはならなくなる。しかしそれは俳句文学の本質ではありません。むしろ俳句の本質は非自我意識文学にある。つまり現代文学のスタンダードとは違う原理を持っている。その原理を明らかにすれば、少なくとも俳句が座や結社や師弟制度を保持しており、これからも保持し続けるだろう理由はかなりの程度説明がつくようになります。
またこのような理論的整備までが〝文学の問題の範疇〟です。結社や俳風によるさや当ては当事者の俳人にとっては現実的悩みの種でしょうが、少なくとも一般読者には関係がない。また素晴らしい俳句を書こうと思っている限り、俳人にとってもささいな問題です。泥水であろうとキレイな蓮の花は咲くのであり、優れた俳句作品を生み出し享受し続ければ良い。長い歴史を持つ日本固有の伝統文学だというのなら、自己の作品評価はあっさり後世に委ねればいい。大結社所属などのメインストリートから外れた悩み多い俳人は、俳句は小説や現代文学(自我意識文学)だと強弁することをヤメ、その原理を捉え直せばずいぶん楽になるはずです。
■ 岡野隆 詩誌時評『句誌』『No.079 特集「夜半と比奈夫~「諷詠」四代の伝統」(月刊俳句界 2017年04月号)』 ■
■ 第05回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
第05回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項です。詳細は以下のイラストをクリックしてご確認ください。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■