今月号は「夜半と比奈夫~「諷詠」四代の伝統」の特集が組まれている。結社誌「諷詠」は後藤夜半によって昭和二十八年(一九五三年)に創刊された。ご子息の後藤比奈夫さん、その子供の立夫さんに継承され、現在は立夫さんの娘の和田華凜さんが主宰である。現在までに八二五号を数え、創刊七十周年を迎えようとする長寿結社誌である。
「諷詠」創刊者の後藤夜半は明治二十八年(一八九五年)に大阪の曽根町新地で生まれ、昭和五十一年(一九七六年)に八十一歳で没した。夜半の息子の比奈夫さんは大正六年(一九一七年)生まれで今年百歳を迎えられる。夜半の孫にあたる立夫さんは七十二歳でお亡くなりになったが、比奈夫さんは「諷詠」名誉主宰であり現役の俳人だ。現主宰の和田華凜さんは昭和四十三年(一九六八年)生まれだから働き盛りである。
夜半が高濱虚子の「ホトトギス」から現れた俳人であることは周知の通りだが、うかつにも今回の特集を読んで、喜多流能楽師の後藤得三、喜多流十五世宗家の名人、喜多実が夜半の実弟だと初めて知った。特集のインタビューで比奈夫さんが「父の生まれは北の新地でお妾さんの子だったんです。ところが正妻の方が早く亡くなり、お父さんは父の母の方で暮らしていたんです。(中略)本家の子供達は結構苦労されて能の喜多流へ預けられたりしましてね。父は大阪で言う〝ぼんぼん育ち〟というか育ちはいいんですね」と発言しておられる。
後藤得三と喜多実は十四世宗家喜多六平太に弟子入りし、実が養子になって十五世を継いだ。比奈夫さんの発言からは、夜半と後藤得三、喜多実の間に密な交流があったかどうかまではわからないが、後藤家は能楽師とも繋がりの深い、風流を好む家だったようだ。夜半の俳風についても、なるほどと思わせる点がある。
国栖人の面をこがす夜振かな
金魚玉天神祭映りそむ
牡蠣舟へ降りる客追ひ廓者
傘さして都をどりの篝守
羽子板の写楽うつしやわれも欲し
瀧の上に水現れて落ちにけり
大阪の冬の灯ともる頃へ出る
舞初の女大名太郎冠者
手にお瀧足にお瀧と寒垢離女
初夢の扇ひろげしところまで
端居して遠きところに心置く
風邪を引くいのちありしと思ふかな
着ぶくれしわが生涯に到り着く
(「後藤夜半50句 金田志津枝抄出」より)
夜半の代表作に「瀧の上に水現れて落ちにけり」があるが、その理由に師の虚子がこの句を激賞したことがある。確かに虚子「流れゆく大根の葉の早さかな」につながるような動きのある写生句である。ただ素直に夜半の句を読めば、彼の句の特徴が大阪を中心とした文化の雅を掬い上げることにあったのは明かだろう。「国栖人の面をこがす夜振かな」は伎楽の一場面を捉えた句である。「舞初の女大名太郎冠者」は曲はわからないが狂言が題材である。夜半は能楽を始めとする古典芸能を好んだ人でもあったようだ。
夜半は遊び人ではなくその逆に謹厳な人だったようだが、「牡蠣舟へ降りる客追ひ廓者」や「傘さして都をどりの篝守」といった、関西圏の雅を表現した句には強いリアリティがある。俳句では鑑賞は評釈が中心であり、まず作者がいつ、どこで、何を見て句を詠んだかが事細かに解説されるのが常である。俳句という表現は基本的に日常現実の一瞬を掬い上げるわけだから、それはそれで意味のあることだ。ただ一方で明治維新以降の俳句はヨーロッパ文学の影響を受けており、小説や自由詩と同様に俳句一作を独立した作品として捉える。このヨーロッパ文学の常識を前提とすれば、特定の時空間に作品解釈が限定されるのは必ずしも好ましくない。それを超えてある普遍性に達していなければならない。
目の前の風物を写すように表現する写生俳句の場合、評釈で時空間を限定しておいて、それがある普遍的な心性や文化に届いていると結論づけるのが常である。ただ俳句のような短い表現では、普遍的心性や文化が平板なものになりがちだ。簡単に言えば作家性が希薄になる。インサイダーは微細な差異を読み取ることができるだろうが、俳句を贅沢に楽しむ一般読者にとってはどれもこれも似たような句に見えるのだ。その平板さを逃れるために評釈が活用されているという面は確実にある。
夜半の句はなるほど端正な有季定型写生俳句だが、実景といより関西文化の粋を映し出したリアリティがある。それが虚子「ホトトギス」全盛時代に夜半が作り上げた独自の〝俳風〟だろう。また夜半の俳風は「初夢の扇ひろげしところまで」「端居して遠きところに心置く」に表現されているように、どっぷりとある文化に耽溺するのではなく、距離を置いて客観視することで生まれている。
息子の比奈夫さんはインタビューで、夜半は「「俳句は風流だ」とも言っていました。汚いものは詠むな」と語ったと言っておられる。夜半の風流とは語りすぎないこと、自分ですべてを理解しつくそうとしないことでもある。余韻のある句と言ってもいいが、ちょっと物足りないところで筆を止める勇気だとも言える。
どこやらが冬どこやらが春の雲
首ながききりんの上の春の空
つくづくと寶はよき字宝舟
花に贅落花に贅を尽くしたる
東山回して鉾を回しけり
ここへ来て佇てば誰しも秋の人
おのづから人澄む水の澄める里
水底に水面が映り水澄める
落花飛花落花飛花はた飛花落花
父恋ふ子子を恋ふ父や花に黙
(「後藤比奈夫50句 金田志津枝抄出」より)
息子の比奈夫さんの句を詠むと、夜半の俳風が的確に継承されていることがわかる。比奈夫さんは理系だそうで、代表句「東山回して鉾を回しけり」について、インタビューで「この句は簡単なアインシュタインの相対性理論で、鉾に乗っていて真正面にあったものが右に回ったら九十度変わった。それを「東山回して」と表現した」と語っておられる。「首ながききりんの上の春の空」にあるように、空間的広がりを持つ句が多い。
ただ比奈夫さんの句の一番の特徴は、「水底に水面が映り水澄める」のような重畳表現が多いことだろう。夜半があるリアリティとして把握していた土地土地固有の文化の輪郭は、比奈夫さんに限らずわたしたちから失われてしまった。比奈夫さんは必ずしも夜半的な「風流」――汚いものは詠まないという主張に賛成ではないようだが、俳句で雅を表現することは受け継いでおられる。言語的な重畳表現は、夜半的な雅の純化だとも言えるし、夜半的文化リアリティの希薄化だとも言える。夜半俳句の膨らみが一回り小さくなっている印象を受けるが、純度はさらに増している。
こういった形で俳風が受け継がれてゆくのは基本的にいいことだと思う。夜半や比奈夫さんの俳風を慕って入門してくる俳人も多いだろう。ただ俳壇では結社ごとに、俳人の個性を添削して撓めてしまう傾向がある。歌壇のようにある歌風を中心に据えながら、口語短歌歌人をも受け入れて、ある時期まで好きにさせるといった風土は俳壇には見られない。
結社に限らずある集団組織の発展は変化にあると思う。表現の核を持ち、その周囲に生成されてゆく果肉が様々な味や匂いを放ってゆくのが理想だ。そういった種類の自由をもっと許容すれば、俳句の世界はさらに活気あるものになる。
岡野隆
■ 後藤夜半、後藤比奈夫さんの本 ■
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