鶴山裕司さんの連載エセー『言葉と骨董』『第046回 エチオピア正教のイコン(上編)』をアップしましたぁ。今回はアフリカのエチオピア正教のイコンを取り上げておられます。46回目もの連載になると、だんだん鶴山さんの骨董エセーの特徴が見えてきますね。鶴山さんにとって骨董は考えるための手がかり――つまり〝言葉と骨董〟です。
鶴山さんは『よくわからない物を買うのはある種のエグゾティズムである。異国趣味と訳されることもあるが、自分なりの〝辺境〟の探求だと言ったほうがしっくりくる』と書いた上で、現代のエグゾティズムについて論じておられます。
神が世界創造主でそれゆえ神学が現世の思想軸でもあるキリスト教徒にとって、存在の輪郭すら持たず、その神性が表意文字や図像としておぼろに表象される東アジア世界は、異端であり文化果てる辺境の地だろう。ただヨーロッパは現代のポストモダン社会に至って、思想的にはほぼ完全な神の解体に至っている。もっと正確に言えば、キリスト教的思想フレームはそのままに、そこに東洋思想を取り入れて世界認識の再構築を図っている。セガレンと同様に、東洋的辺境が自らの中にも存在することに気づいたのである。
この構造は、西から見たかつての辺境である東方世界でも生じている。東方の人は中心のない混沌とした世界が、なぜ秩序を保っているのか直観的に理解している。しかしそれを今や世界標準となった西側の論理で説明するには構築的な思想フレームが必要だ。西側の擦り寄りとも言えるポストモダン思想に狂喜していたのでは東方思想の本質は明らかにできない。西側キリスト教世界――もっと言えばユダヤ教やイスラーム教を含むセム一神教世界に、自らの中にも存在する辺境を見出さなければならないのである。
鶴山裕司
吉本隆明は確か、『まわらぬ口でシニフィアンなんて言うな』とか、『知の密輸業者の書く思想などくだらん』といった暴言を吐いたことがあります。でもまー、ある程度はホントのことですよね(爆)。鶴山さんも吉本さんと似たような思考法を取っておられると思います。詩人の特徴なのかな。わたしたちに必要なのはポスト・モダンではなく、構築的思想です。ただそれは現代ではポスト・モダンを通過した構築的思想でなければならない。一筋縄ではいかない骨董エセーは中編に続くのでしたぁ。
■ 鶴山裕司 連載エセー『言葉と骨董』『第046回 エチオピア正教のイコン(上編)』 ■
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