『雪村--奇想の誕生』展
於・東京藝術大学大学美術館
会期=2017/03/28~05/21
入館料=1600円(一般)
カタログ=2500円
雪村は室町後期の延徳年間(一四八九~九二年)に生まれ、天正五年(一五七七年)頃に没した禅僧絵師である。八十歳を越える長寿で、晩年まで精力的に活動したのは間違いない。ただ為政者の御用絵師でなかった絵師の通例として、雪村の事跡もおおまかにしかわかっていない。
江戸初期に書かれた狩野永納の『本朝画史』によると、雪村は常陸国部垂(現・茨城県常陸大宮市)で守護大名・佐竹氏一族の子として生まれた。武士にならなかった理由は不明である。ただ多くの子供を持つ武家や貴族が、幼い子供を出家させるのは決して珍しくなかった。中央はもちろん地方でも寺社はそれなりに大きな力を持っていた。また寺社は当時の情報の集積地でもあった。有力者たちは娘の婚姻(政略結婚)や男の子の養子縁組、寺への出家などによって様々なネットワークを張り巡らし、身の保全を図っていたのである。
雪村は幼い頃に佐竹氏ゆかりの寺で出家し、禅を学びながら画僧としての修行を積んだ。寺はそれ自体で完結した組織であり、学僧、画僧などそれぞれの得意分野を担当する僧侶がいた。争いの絶えない戦国時代には自衛のために僧兵を組織する大寺もあった。雪村晩年の元亀二年(一五七一年)には織田信長の比叡山焼き討ちも起こっている。
生家の佐竹氏も、戦国時代を通じて常陸国統一や奥州覇権を巡って争った。豊臣秀吉に付き、関ヶ原では徳川家康に付いた典型的な戦国大名である。江戸以降は平安時代以来の所領・常陸を離れ、秋田久保田藩の外様大名として存続することになった。『世界に挑んだ7年 小野田直武と秋田蘭画』展で触れた蘭画好きの藩主・佐竹曙山は佐竹氏の後裔である。
雪村作品が確認されるようになるのは四十代に入ってからである。この間の詳細はわからないが常陸を中心に修行生活を送っていたようだ。五十代には会津に向かい、次いで鹿沼・佐野(現・栃木県)を経由して鎌倉・小田原に滞在している。六十代に鹿島神宮(現・茨城県)に立ち寄ってから再び東北に向かった。いずれの地でも有力者を頼り、画を描き残している。雪村の画名がそれなりに高かったことがわかるが、佐竹氏の出自も物を言っただろう。晩年は三春(現・福島県)に居を定め、会津を行き来したらしい。
『葛花、竹に蟹図』
一幅 絹本着色 三一×三七・六センチ 室町時代 十六世紀 群馬県立近代美術館(戸方庵井上コレクション)
『叭叭鳥図』
一幅 紙本墨画 四六・三×二三・一センチ 室町時代 十六世紀
『葛花、竹に蟹図』は院体画、つまり中国南宋画院に倣った作品である。『叭叭鳥図』は水墨画だがその描き方は確信に満ちている。絵師が鳥に神経を集中させるのは当然だが、技術が未熟だと鳥の足や岩、樹木などの配置や描き方がおそろかになる。両者ともに雪村の比較的若い時期(四十代頃)の作だと推定されるが、技法はすでに出来上がっている。
雪村が日本水墨画の創始者であり、画聖とも仰ぐ雪舟を意識した名であるのは言うまでもない。雪舟と雪村は七十歳ほど年が離れており、雪村がほんの子供の頃に雪舟は亡くなっている。しかしその間の中国文化の流入はすさまじかった。禅宗と茶の湯の流行により様々な中国絵画が将来され、狩野派を始めとする流派が成立し始めていた。雪村は雪舟に学ぶだけでなく、同時代のほとんどの画法を身につけている。
江戸以前の絵師の修業は徹底した模写である。雪村もまた山水画だけでなく、仏画、静物画、人物画など、様々な粉本を模写している。ただ画題は限られていた。山水といってもお手本となる中国画があり、実景を写した作品ではない。仏画や静物画、人物画も同様である。だから絵師たちの作品はパッと見ると似通ったものに感じられる。その、日本人には飽き飽きするような膨大な画の中で、わずかに画家の個性が発揮されるのだ。ただ雪村の独自性は同時代の絵師たちより少しだけ抜きん出ていた。
『琴高仙人・群仙図』
三幅 紙本墨画 中:一二一・五×五四 左右:一二一×五六センチ 室町時代 十六世紀 京都国立博物館
『列氏御風図』
一幅 紙本墨画 一二七・五×五六センチ 室町時代 十六世紀 東京・公益財団法人アルカンシエール美術財団
『琴高仙人・群仙図』は、後漢頃に中国で書かれた『列仙伝』(仙人列伝)に題を取っている。琴の名手で仙人の琴高は、龍の子供を取ってくると弟子たちに言って川に入ったが、鯉の背中に乗って現れた。登竜門の元となった目出度い画題である。列氏は春秋戦国時代の道家で、道術を極めて風に乗ることができたのだという。『列氏御風図』は列氏が風に乗ってふわりと浮き上がったところを捉えた画である。
これらの画題は当然だが、多くの絵師が動きのある表現でまとめようと試みた。しかし重厚さの中に軽さを交えた筆致は雪村ならではのものだ。雪村は風や波などの動きのある表現を得意とした。それが可能だったのは雪村が『列仙伝』や『列氏』を実際に読み、学習した学僧でもあったからだろう。いわゆる日本画には必ずと言って良いほど先行表現がある。大胆に衣や弁髪を風に翻す琴高仙人や列氏の姿は、雪村のテキスト解釈に基づいている。
『呂洞賓図』
一幅 紙本墨画 一一九・二×五九・六センチ 室町時代 十六世紀 奈良・大和文華館
呂洞賓は唐時代の伝説上の仙人で、道教を代表する八仙人の一人である。八仙人それぞれに逸話があり、画題となっている。ただ雪村の『呂洞賓図』は今のところ、その粉本(原典)となった作品が見つかっていない。雪村独自の表現である可能性もある。呂洞賓が登場する中国の書物はいろいろあるが、雪村は彼の時代に近い明時代に呉元泰が書いた、『八仙東遊記』を元にしたのではなかろうか。呂洞賓が竜王たちと争ったという記述がある。
『呂洞賓図』は雪村の代表作の一つだが、見る者に強い印象を与える。足と両手を横に広げて龍の上に乗っている。身体から発散される気のような力で、弁髪も着物の裾も翻っている。首のない頭は異様だが、なびく髭が天上の龍の胴体と見事に対応している。この呂洞賓の描き方(解釈)がその後日本の画家たちに踏襲されていったのは、この画に盛り上がるような調和があるからである。典拠となった故事はわからなくても、画は画面構成自体で完結している。
雪村がなぜ大胆な絵画表現を為し得たのかについては様々な理由があるだろう。一つの仮説として、彼が生涯東国を出なかったことが挙げられる。雪村は確かに常陸の佐竹氏や小田原の北条氏、会津の蘆名氏などの寵愛を受けた。源氏以来の古都である鎌倉が、東国では学問の中心拠点だったのも確かである。しかし京都には遙かに及ばない。学問と画の中心が京都だということは知っていたはずだ。だが雪村は上洛した形跡がない。
雪村はあえて上洛しなかったと言うより、中央画壇に足を踏み入れることなど考えもしなかったのではあるまいか。足ることを知っていた人だとも言えるし、高い画の技法を誇ることのない人だったと言えるかもしれない。一つの証左として、雪村の署名と印の押し方がある。雪村の落款の入れ方は一定しない。ぞんざいと言っていいような落款を、空いたスペースに適当に入れている。時代は下るが法橋光琳のように、堂々と、また落款を画の一部として見せるような美意識はない。画が主であり作家は従だと考えていた節がある。ただ京都中心に活動しなかった雪村の作品は、室町時代の絵師としては比較的大量に伝わることになった。戦乱で失われなかったのである。
展覧会のタイトルが『雪村-奇想の誕生』であるように、雪村は奇妙な画を描いた画家として認知されつつある。この〝奇想〟という言葉は昨今流行だ。伊藤若冲や曾我蕭白に対しても言われ、長い間王道とされてきた円山応挙らの人気を凌ぎつつある。わたしたちが彼らの絵に現代的な画家の自我意識を見るからである。画家固有の創造性が画に表現されているならば、それは現代絵画の評価と地続きである。
しかしそれは、歴史に即せば留保が必要な賛辞だ。雪村や若冲、蕭白は同時代のメインストリームを歩いた絵師ではない。逆に言えば、同時代に確固たるメインストリームが存在していたからこそ、彼らは弱小絵師として少しだけ自由な表現を試みることができた。
『鷺図』(雪村団扇)
紙本墨画 二〇・五×一七センチ 江戸時代 茨城県立歴史館
さらりと見事な鷺が描かれているが、これは雪村の作品ではない。雪村死後に作られた倣製品であり、実際に団扇として使われた物である。ただ常陸太田には雪村の画を手本にして、特産品として雪村団扇を売り出したという伝承がある。すべてではないが、こういった口碑にはなんらかの事実が含まれていることが多い。死去するまで暮らした三春には数多くの雪村作品が残っている。雪村が地元で愛され、比較的安い値段で気楽に画を描いていたことがわかる。団扇画を描くことで地元に貢献した史実もあったかもしれない。画才はともかく、田舎絵師として生涯を終えた雪村の姿が浮かんでくる。
『瀟湘八景図屏風』
六曲一双 紙本墨画 一五二×三四九・五センチ 室町時代 十六世紀
『瀟湘八景図屏風』には「継雪村老季八十六歳圖之」の款記があり、雪村最晩年の作である。必ずしも近代的な文脈での自我意識という意味ではないが、作品にはやはり作家の精神性が投影される。『瀟湘八景図屏風』は美しい。うねるような山肌と遠景に霞む山が描かれているが、何もない空間を感じさせる。雪村はやはり禅者であり、禅の教えを心の中心に据えた絵師である。
鶴山裕司
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