岡野隆さんの『詩誌時評・句誌』『No.073 月刊俳句界 2017年01月号』をアップしましたぁ。特集『詩歌の国ニッポン~日本人と五七五』を取り上げておられます。千年以上の日本の詩歌の歴史を特集でまとめてしまおうというのだから、大胆な試みですね。
俳句が国民文学だという主張には一理ある。短歌を詠めと言われると尻込みする人が多いが、俳句なら巧拙を問わずたいていの人が詠める。これがけっこうなくせ者で、乱暴な言い方をすれば巧と拙の基準をいくらでも曖昧にできる。ちょっと勉強すれば拙が相対的な巧になるのは当たり前のことだ。じゃあ誰もが認めるような〝巧〟があるのかといえば、究極的には過去の古典作品にしか適用できないだろう。現世の俳壇の顔は、杓子定規に言えば各種有名俳句賞を受賞した俳人ということになるが、これがあまりあてにならない。
文学史をひもとけば明かなように、その歴史に名前を刻む作家は何かを新たに創出した人が多い。いわば表現者としての前衛が文学史を牽引して来たのである。しかしある時期から俳壇は大量の俳句愛好者――つまり俗に一千万人とも言われる俳句初心者をそのフィールドに引き入れる代わりに、広い意味での前衛的意志を放棄したようなところがある。簡単に言えばベテランや若手俳人の作品を問わず、俳句初心者が理解しにくい試みは評価しにくいのだ。お手本になるのは手の届きそうな俳句表現ということになる。
岡野隆
岡野さん、俳壇の長所と短所(弱点)をキレイにレジュメしておられますねぇ(爆)。こういった批評は書きやすいようで書きにくい。なぜかと言えば、誰もがしがらみを抱えているからです。うんと俗な言い方をすれば、俳壇で前衛を称していても、賞なんかが欲しければ、筆が鈍ったり偏ったりします。
俳壇に限りませんが、何かの業界を完全に相対化して眺めるのは意外に難しい。少なくとも同じ平面にいぢゃダメです。ただ本当に自由な表現者であろうとすれば、多かれ少なかれ、いわゆるギョーカイの相対化は必須です。抽象的だと言われようと、作家は文学に忠実であればそれでいいのであります。
■ 岡野隆 詩誌時評『句誌』『No.073 月刊俳句界 2017年01月号』 ■
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