久しぶりの小説すばるだ。相変わらずの健康そうな様子が頼もしい。健康そうとは、よく肥えているとか、顔色がよい、元気がある感じとかだ。これは凡庸な褒め方みたいだけれど、年々貴重な特長になっている。他がなにやら不健康になる一方で、小説すばるの何がそんなに元気のモトなのかわからないし、これといって違うところがあるわけではないが、まあバランスと言うしかない。
バランスとは、何と何のバランスなのか。エンタメ性と文学性でもあるし、連載と特集とのでもあり、新人とベテランとのでもあるし、単行本とのそれでもあり、文壇とか賞とかに対する距離感でもある。何かすべてにおいて巧まずして、いや、巧みなのかもしれないけれど、少なくともそれをあまり感じさせずにバランスがとれている。それ自体が価値であるような現在である。
小説すばるを軸足として周りを見渡すと、個々の文芸誌のバランスの悪さがはっきりする。何かに思い切り偏っているのかというと、そうではない。むしろ中途半端にバランスをとろうとして、逆に苦しさが透けてみえる感がある。それはいまやしっかりした〝中心〟を体感できないからだろう。
文壇や詩壇の来し方を振り返ると、その〝中心〟が明確であった時代には、周辺の作家やメディアが存分にはみ出すことができた。キワモノ、イロモノ、四流を自認してハメを外すエネルギーが時代を作り、将来の古典を生み出していった。しかしながら権威が権威として機能しなくなれば、反権威も危うくなる。
小説すばるの何やら健康な感じは、そういった権威の失墜から一定の距離をおいているスタンスにあるように見える。意識し、警戒してそうというのでもなくて、なんとなく自己完結しているというか。そうかといって閉じてもいない。閉じた同人誌的な要素はもちろんなくて、それでも自己完結している。
必要な要素はすべて賄えているような、開かれた自給自足は言うまでもなく経済的な裏付けがなければ不可能だろう。そこだけに絞り、目指すのでなく、ただ当たり前のようにそれを前提とする姿勢は、意外に現在だからこそ可能なのかもしれない。苦しい状況であっても、合理的に考えれば、もちろんそのまま合理的、かつ本末転倒に陥らない運営ができる。それを意識し得る時代でもある。
経済的な裏付けを得やすいのは、エンタメに特化しているからだ、とも言い切れまい。これはエンタメなんだ、というスタンスは飽きられ、透けて見える戦略はすぐ見切られる時代でもある。目次を見て、作家の名前が並んでいる、と見えればそれでよし。ことさらにエンタメを並べたという意図の押し付けは暑苦しい。何に興をおぼえるか、指図までされなくてよい。
文学のあり方にまさに興をおぼえる、という向きは文芸誌を手にとる以上は、結構いるのではないか。とはいえ、いわゆる純文学からのそれへのアプローチは難しくなっている。純文学というシステムを守る姿勢が、エンタメ以上にある価値観を読者に押し付ける。エンタメのスタンスで、自由に文学そのものへとアプローチしてゆく、その可能性の方がリアリティがある。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■