『負傷者16人−SIXTEEN WOUNDED−』(鑑賞日:5月18日)
於 新国立劇場<小劇場 THE PIT>
作 Eliam Kraiem
翻訳 常田景子
演出 宮田慶子
ハンス 益岡徹
ソーニャ あめくみちこ
マフムード 井上芳雄
ノラ 東風万智子
アシュラフ(マフムードの兄) 粟野史浩
美術 土岐研一
照明 中川隆一
音響 高橋巖
衣装 koco
ヘアメイク 川端富生
演出助手 松森望宏
舞台監督 澁谷壽久
芸術監督 宮田慶子
舞台上のリアリティとは、つまり精巧なフィクションである。精巧であるほどに、その舞台は<現実らしく>見える。と同時に、精巧さはフィクションの強度を高め、鑑賞者を幻惑し、<現実そのもの>からもっとも遠いところへ連れて行ってしまう魔力を持っている。そのような状態を指して、本劇評ではよく幻視と言っているが、精巧な幻視ほど現実化(real-ize)し得なくなっていく。
『負傷者16人』は精巧に作られた作品だ。それは舞台装置によくあらわれている。本物の道具・材料を取り揃えたパン屋の内装を舞台上に再現している。しかしパン屋の舞台装置には<外>を表す外舞台がある。ほとんど裸で置かれ、ベッドなどの小道具一つで娼婦街にも病院にもなる。この外舞台のおかげで、大掛かりな転換を必要とせずに場の移行が行われるのだが、外舞台が目立つとき劇は全体の精巧さを損なってしまう。それでも、そのような破壊要素を舞台上に組み込むことは、内容を視覚化するうえで一定の効果を発揮する。舞台の構造が、ユダヤ人の老パン職人ハンスの<精巧なフィクション>に、パレスチナ人青年のマフムードという破壊要素がもたらす、危機の物語の構造に依っているためだ。
*舞台装置模型 (美術:土岐研一)
新国立劇場ウエブサイトより転載 (http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20001982.html)
1992年のオランダ・アムステルダム市の、娼婦街の一角だろうか、ハンスとソーニャが、ベッドに身を起こす場面で幕が開ける。ハンスは週に一度ソーニャの元に通う、長年のお得意様だ。その帰途、ハンスの目前に血まみれのマフムードがあらわれる。ユダヤ人のフーリガンに襲われ、瀕死の傷を負っていても、アラビア語でなにごとか叫びながらハンスの助けを拒み、そのまま気を失ってしまう。
気がつくと、マフムードは病院のベッドに寝かせられ、ハンスの看病を受けている。マフムードが身寄りのない身で、治療代はおろか今日の暮らしも立たないことにハンスは気遣い、うちで働かないかと提案する。施しに激しく反発するマフムードだったが、治療代を返す為に渋々承知する。しかしパン屋の勝手口でユダヤの魔除けを見つけた彼は、ハンスが憎むべきユダヤ人であると知る。激昂して、魔除けにつばを吐きかけ、マフムードはパン屋を飛び出すが、行く宛はなく、途方に暮れ、その日のうちにハンスの元へ戻ってくる。
3年が経過し、マフムードは見習いとして一通りの仕事を覚え、ダンサーを目指しながらハンスの手伝いをしているノラに恋して、彼女のアパートで暮らしていた。そこへオスロ合意のニュースが飛び込んでくる。パレスチナ解放機構のアラファト議長がイスラエルと和平交渉を持つという。ユダヤ人のノラとハンスには朗報だが、マフムードは民族のために戦うべき男の「裏切り」に激怒する。これを一つのきっかけに、彼の過去が明らかになっていく。父親をイスラエル軍に殺されたこと、難民キャンプで地獄を味わい、過激派に加わって活動していたこと、バスを爆破し子どもを含め8人殺したこと、いまアムステルダムで身を隠して生きていること。
彼の過去を知ったとき、ノラはすでにマフムードの子どもを身籠っていた。マフムードは妊娠を喜び、イスラムの儀礼にならい生まれた子どもにアザーンをささやく役を、ユダヤ人であるハンスに依頼する。マフムードがユダヤ人を爆殺したテロリストであることはノラから聞いている。そのためハンスは困惑し、どうにか断ろうとするが、最後にはマフムードの厚い信頼にほだされてしまう。
そんな折に、アシュラフがマフムードの元へあらわれる。兄弟の再会を喜ぶのもつかの間、アシュラフはユダヤ教教会の爆破を命じる。二人のやり取りから、マフムードがバス爆破テロを実行した理由も明らかになる。パレスチナに残る弟が事実上の人質にとらわれていた。マフムードが教会爆破を断れば、学校に通わせる約束を反故にされるだけでなく、マフムードの欠員を埋めて弟が過激派に加えられ、テロリズムと虐殺の報復の前線に送られることになる。パレスチナの難民キャンプで苦しむ家族と、これからアムステルダムで作る家族の間で板挟みになり、マフムードは苦渋の選択をする。ノラと子どもをハンスに託し、爆破テロを引き受ける。
深更のパン屋で爆弾を用意する現場をハンスに目撃されたとき、二人の口論は互いの過去と民族の歴史を衝突させる。
ノラのお腹にアザーンをささやいたその日、ハンスはソーニャに会い、自分の過去を打ち明けた。ハンスはナチスの協力者だった。身分を偽り、ユダヤ人の同胞を見捨てても、ホロコーストを生き延びた。それがハンスのユダヤ人としての経歴だった。本当の名はエズラ・ミンツという。夜な夜な釜で人を焼く悪夢に苛まれる。生き延びるためとはいえ、信仰に背き、虐殺に手を貸した、その結果がアムステルダムのパン屋としての生活だった。
ホロコーストを生き残ったユダヤ人が、いまパレスチナ難民を虐殺している、ユダヤ人の虐殺者は兵士と呼ばれ、パレスチナ人の抵抗者はテロリストと呼ばれる――怒れるマフムードの叫びは、同じ赤い血が流れていても人間扱いされないユダヤ教徒の怨念を叫んだベニスの商人の亡霊のようでもある。そんなにユダヤ人が憎いなら、とハンスはマフムードにナイフを握らせ、その切っ先に身をさらす。だがマフムードにハンスは殺せない。ハンスの肉を切るかわりに、爆弾の時限装置のコードを切り、マフムードはハンスとともに民族の対立を超克する。
しかしマフムードには家族の問題が残っている。ノラのお腹の子にも、パレスチナの弟にもマフムードの「同じ赤い血が流れている」。問題の本質はこの<血>の深さに横たわる。未明、マフムードは爆弾を背負ってパン屋を去る。朝になり、ハンスが起き出してくると、昨夜部屋に戻らなかったマフムードを心配して、ノラがパン屋に飛び込んでくる。直後、<外>で爆発音が聞こえる。テレビから聞こえるユダヤ教教会爆破の速報。ハンスとノラは悄然と舞台に立ち尽くす。観客席の方に顔を向けているが、新国立劇場の観客席後方には、劇場入り口の扉がある。二人の眼差しは、その扉の向こうの現実を見透かすようにじっと動かないまま、暗転し、閉幕する。
精巧な内舞台はハンスのための演技空間だと言える。それは劇中においての<外>と隔絶した、ユダヤ人ハンスのパン屋というフィクションだ。その構造は劇場においても共有されている。劇中の<外>と、さらにその外側にある現実の観客席、劇場ロビー、劇場外とのつながりが、裸舞台という錯視空間によって結ばれている。「ここ(=パン屋/内舞台/フィクション)には問題を持ち込まないでくれ」と、ハンスはマフムードに訴える。マフムードがハンスをユダヤ人と罵倒すれば、その声の剣先は精巧に作られたアムステルダムのパン職人ハンスの外面をすり抜け、<外>からやってきた異邦人エズラ・ミンツに当たる。それはマフムードが、<現実そのもの>たるイスラエル・パレスチナ問題をも抱えこんで、同じく<外>からやってきた異邦人であることと関係している。こうしてハンスのフィクションは危機を迎える。マフムードがパレスチナの惨状を訴えるとき、観客の想像力には昨日の新聞の国際欄がなだれ込むかもしれない。精巧なパン屋の内舞台は幻視の効力を失うだろう。しかしその瞬間こそが、本作にとって最も重要な瞬間である。パン屋は精巧でなくてはならない。<現実らしく>作りこまれていてこそ、観客を<現実そのもの>へと揺さぶり醒ます効果を最大化できるのだ。
<精巧>でなければならないのは、役者の演技も同様だ。途中休憩を挟んで3時間の上演中観客を幻視させつづけるだけの迫真性、それも役者全員が一定の迫真性を保つ精巧さが求められるだろう。難役はマフムードだ。台詞にアラビア語が混在するうえ、アザーンの詠唱もこなさなくてはならない。日本人演じるパレスチナ人が日本語で演技し異国語を口にするという違和感は、とくにキャラクターの素性がつかめない序盤の場面でどうしても際立つ。それを処理したのは、益岡徹による幕開けのハンスの息つきだった。観客の鑑賞態度が決まるその瞬間に、すこしオーバーに聞こえる息つきの演技で、全体に渡る演技の調子を作っていた。この瞬間のぎりぎりの不自然さがマフムードの違和感を和らげ、その後は、井上芳雄演じるマフムードが勢いよくその調子を引き継いだ。
演出面では、マフムードの登場が工夫されているかもしれない。2004年に本国アメリカで上演されたときのNYタイムズの劇評を見ると、マフムードがパン屋のガラスを突き破って登場したことが伺えるが、本作ではマフムードは<外>でハンスと遭遇する。マフムードの異邦性は前者の演出のほうが明確になるが、後者は舞台構造を生かした演出と言えるだろう。<外舞台>下手のソーニャとの場面からマフムードと出会う上手の場面への移行は、なにより裸舞台の錯視空間と内舞台の幻視空間の差異を観客に了解させるものだ。
舞台と演技と演出は連動し、本作の試みは成功を収めたと思われる。テロリズムから新たなテロリズムへと向かう悲劇だが、その内幕の多層性を見せたことは、今後も現実の過酷なニュースを見聞きするであろう観客の耳目を醒ましたのではないだろうか。最後の場面は、そのシミュレーションでもある。テレビから流れる速報は、マフムードを「黒いバッグを持った青年」としか伝えない。そしてこの爆発で「16人の負傷者が出た」ことだけが判明し、幕が下りてしまう。第二報、第三報は、観客の想像力だけが追いかけられる。自爆テロと判明するまでにはそれほどかからないだろう。「負傷者16人」が「犠牲者16人」と判明するのも時間の問題だ。しかし、その実行犯が、宗教対立、民族対立を解消しながらも、家族の問題のために、ほとんど政治的に殺されたような自爆を図ったことは、いつ何報目で伝えられるのか。あるいは永久に伝えられないのか。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■