チェルフィッチュ『現在地』(鑑賞日:4月30日)
於 KAAT神奈川芸術劇場<大スタジオ>
作・演出 岡田利規
ナホコ 伊東沙保
ハナ 南波圭
サナ(シノブ) 上村梓
マイコ 安藤真理
カスミ 青柳いづみ
アユミ 山崎ルキノ
チエ(タエコ) 佐々木幸子
美術 二村周作
音楽 サンガツ
舞台監督 鈴木康郎
照明 大平智己
音響 牛川紀政
映像 山田晋平
ドラマトゥルグ/演出助手 セバスチャン・ブロイ
宣伝美術 松本弦人
『現在地』について始める前に、チェルフィッチュの紹介もかねて、『三月の5日間』について少し。
昨年末。
横浜の小劇場「STスポット」で産声を上げ、岸田國士戯曲賞を受賞し、岡田利規主宰の演劇カンパニー「チェルフィッチュ」の名を一躍有名にした孝行戯曲『三月の5日間』が、世界13カ国を経巡って100公演を重ね、横浜の劇場に里帰りした。岡田を父親とするなら、イラク戦争を母親に持つ本作は、その終結の年に、再び故郷の舞台に掛けられた。
『三月の5日間』は、イラク空爆前後の5日間を過ごした数組の若者が、「これは○○くんから聴いた話なんだけど……」と、友達の近況を報告し合う劇だ。ミノベくんとユッキーは5日間、渋谷の円山町あたりのラブホテルに泊まりこんでヤリまくったそうなんですよ。アズマくんはミッフィーちゃんていう、まんまミッフィーちゃんな、名は体を表す的な、まぁアレな女の子と映画を見たって話で。ヤスイとイシハラはデモに参加していたんです、ノリで。こんな感じだ。
だらだらしたしゃべりかた。説明べたでいろいろあとから付け足すから、なかなか話が進まない。俳優たちの無意識の癖などを取り入れた各人の身振りは、過剰に増幅されて、変な動きになっている。舞台上に聞き役がいても、基本的に俳優は観客に話しかけている。どういう話なのかわかってきたところで、「じゃあこれからその場面をやります」といって、劇らしいものが始まる。が、とくに配役が決まってないので、ミノベくんの役をやっていたのにいまはアズマくんをやっている、という具合で、ひとしきりやったらやめてしまう。戯曲というより、日記を本格的に朗読しているのに近い。こうしてお互いに、ざわざわとした5日間をだらだら過ごしていたことが、あらかた分かったところで、主にミノベくんだった俳優が、ちゃんとミノベ君に扮し、主にユッキーだった女優はユッキーを準備してきて、ラブホテルを出てホテル代を清算した渋谷の路上の場面を二人で演じる。この一場面は完全な演劇で、二時間のマエセツがたしかに本番を迎えたところで、終幕。
チェルフィッチュは、こういう戯曲を演劇界に突きつけて、常識的ないわゆる「演劇」を震撼せしめたのであった。
そんなチェルフィッチュの最新作が、今回取り上げる『現在地』である。『三月の5日間』より、さらに限定的で、ジャーナリスティックなタイトルは、大いなる運動/循環の時間的空間的一点を指している。それは、おなじ現在を過ごす人々の多くが抱える、コミュニケーション不全からくる孤独の在所である。震災・原発事故以後という現在の、報道と予兆の間、不信と絆の間にあるような一点だ。
『現在地』の枠組みはSFで、かなり荒唐無稽だ。日本で大きな戦争が起こったとき、日本を離れることを決心した人々は、「村」と呼ばれるコミュニティを作り、移住した。これが『現在地』に至る歴史。『現在地』の物語はそれより二世代くだった、開拓者の孫世代にあたる7人の<女子>が、それぞれの選択を下すまでの物語だ。「村」では破滅の凶兆が噂されていた。ナホコは夜中に湖の上に青く光る雲を見て、破滅を信じ始めている。ハナは大雨の日の図書館にずぶ濡れで入ってきた老女が破滅を嘯いていたことに怯えている。チエもまた、破滅を悲観し、生き残るために「村」を出る決心を固め始めている。噂に直に翻弄される3人に比べ、サナ(チエの妹)やマイコはある程度冷静に受け止めて、信じていいのか悪いのか、判断を迷っているところだ。カスミとアユミの姉妹もウワサはウワサと考えているが、破滅なんてないに決まっていると強調するカスミは心の底で誰よりもウワサに怯えている。ウワサとの付き合い方、変化との向き合い方の違いが、凡庸な7人のコミュニティに食い込み、細かくても埋めがたいヒビを入れていく。
フィクショナルなストーリーとキャラクターにフィクショナルな背景を持たせて準備され、女優7人にはそれぞれに固定された役があてがわれている。それは普通の演劇だ。岡田は「フィクションの持つ力」を本作の鍵とし、普通の演劇に挑戦したのである。その力の入れ様は、普通の演劇をさらに普通の演劇として強化する過程で、むしろ普通の演劇のパロディーに仕立て上げている。現実離れした筋立てに始まり、7人のキャラクター全員に過剰に刷り込まれた「〜だわ」の口調も、フィクションをさらに<不自然>なものにしている。
演出面においては、よりはっきりと普通の演劇が相対化されている。舞台装置はチェーン展開するカフェの店内のような、木目と清潔感に溢れたオーソドックスな空間である。舞台奥は柱に据え付けられたカウンターで、手前からコの字に6席、テーブルとイスが設置されている。マグカップを片手に登場してきた女優たちは、最も観客席に近い1席を除いたテーブルにそれぞれ着席し、舞台奥を向いている。そして、7章立てのプロットが進行すると、各章の登場人物はカウンターの前に立ち、他の女優たちを観客にして、それぞれのエピソードを演じる。この<舞台上の観客>は、現実の観客と舞台中央で展開するフィクションをつなぐための装置であると、岡田はインタビューで語っている。空席のテーブルは現実の観客のために空けられているのだ。
『現在地』は限られた舞台上の時間空間にだけ生起し、『三月の5日間』のように、舞台の方が観客席に近づいてくるような素振りは見せない。観客のほうが、<舞台上の観客>に重ね合わせて、フィクションの領域に誘いこまれていく。その結果、観客が現に抱える個人的な諸問題と、フィクションに描かれた鏡像のような諸問題が反応し合う。岡田は、観客に個人的な事柄を舞台に持ち込むように要求している。
破滅の噂は、現実の我々も日々目に耳にしているものだ。震災以後の放射能汚染の真実(ウワサ)、あるいは震災前夜としての、東京直下M7大地震の予知(ウワサ)。舞台上の7人が、我々自身の7通りの姿であることは強調するまでもない事だ。そして7人の会話に潜むコミュニケーション不全も。
チエとサナは、劇中に劇中劇の上演を試みる。それは「村」の始まり、おじいちゃんおばあちゃんの世代の物語だ(これによって「村」の歴史が語られる)。迫りくる危機に対し、チエ演じるタエコは「村」への移住に希望を求め、生まれ育った土地を離れるという。サナ演じるシノブには、土地を離れられる「強さ」はないし、またその「強さ」を信じる事も出来ない。「愛着」を巡る二人の議論は激しさを増して本音をぶつけ合うが、そこにナホコが突然躍り出て、劇を中断する。彼女にとって、破滅はいまそこに迫っているのだ。そんな最中にじっと座って劇を鑑賞する耐え難さ。ナホコは舞台を飛び出し、行方知れずとなって、実際には舞台上の<観客席>に着席することで、役を降りることになる。
コミュニケーション不全は続く。それはハナとカスミの一幕にもっとも強烈に反映される。ハナは、図書館の一件以来、不安を一人では抱えきれずにいた。だから「ウワサはウワサよ」という一言で不安を解消したくて、カスミとアユミのもとを訪ねるが、ちょうど一人きりでいたカスミには、ハナの持ち寄る不安こそが耐えられない。一番強情にウワサをつっぱねていたのが不安の裏返しであることに気づかず、ハナはカスミに安心を求めて頼り、彼女の押し隠す不安を逆撫でする。カスミは、耐えきれず、ついにハナを殺してしまう。死をもってハナの不安を解消すると同時に、自分自身の安定を得るのである。死んだハナは、しばらく舞台の縁に転がっているが、やはり<観客席>に着席して退場する事になる。
小さな「村」のコミュニティは、かつての破壊を免れて理想を共にした絆で結ばれていたが、新たな破滅の兆しは不信の念を募らせる。震災以降の現実も、絆を強調する一方、それを細々と切り刻むような諸相を抱えている。報道への不信、楽観への不信、不信への不信。そしてついに決定的な兆しが起こる。湖が枯れ、その底に、かつての移住者の舟が見つかるのである。「村」の水産業はおおきな打撃を被った。「村」は脱出組と残留組に二分した。脱出組の末路はチエによって語られる。頭数は意外と少なかったという。ともかく舟は宇宙へと脱し、安住の地を探して旅をする。「村」が破滅したかどうか、彼女には確かめようもない。残留組と「村」の顛末は、サナによって語られる。その後「村」にはノアの方舟の話のように40日間も雨が降り続けた。その結果、湖は元の水位を取り戻し、「村」は元通りになったという。
チエとサナは、劇中初めて、観客に直接語りかける。「こうして私たちはここにいるの」。「私たち」は、観客である我々に向けられている。フィクションからの語りかけは、これまで、あるいはこれから、我々の不安との付き合い方がどのように変化しようとも、あるいは変化しなくとも、どちらの選択/孤独とも関係しようとする。劇の終わりは曖昧で、なにもかもが宙づりにされているが、それは我々の抱える現在とパラレルな現象なのだ。誰と結びつき、誰を信じないか、まだ個々人の抱える現実は着地点を見出していないかもしれない。しかし、いつかは、どのような形でも、自分で選択し、その結果の孤独を引き受けなければならない時がくる。その過程に寄り添おうということか。
以上を本作の試みとすると、しかし、チェルフィッチュがその仕事を担うことの必然性が疑問に残る。一つには、岡田利規個人の状況もあるだろう。震災と放射性物質の飛来をきっかけに熊本に引越した彼もまた、ある一つの選択/孤独を引き受けた人物である。
もう一つ、チェルフィッチュがこのフィクションを上演する必然性があるとすれば、それは岡田の言うフィクションと現実の<緊張関係>に糸口があるように思われる。劇中には常に緊張の糸が張り巡らされていた。<不自然さ>に伴う緊張だ。本作のテクストは、先にも触れた通り、「〜だわ」を重ねて多用した不自然な口調で、『三月の5日間』の執拗にだらだらとしたしゃべりかたと(正反対ながら)等しくバランスを欠いた、行き過ぎた<口語>といえるものだ。台詞は、テクストの文章を正確に音読するように棒読みに発話される。役と俳優は、台詞のレベルでほとんど不整合なのだ。私たちに与えられた彼女らの孤独を演りきらなければならない、という緊張感。
筋立てにおいても、演出においても、テクストにおいても、過剰なフィクション性は、逆に俳優の存在を舞台上に際立たせている。フィクションとしての不安と孤独を演じなければならない、不安と孤独。本作は、実はこのレベルで我々の現実と緊張関係を結んでいるのではないか。
『「フィクション=オルタナティブな現実」、あるいは「現実=今のところ支配的なフィクション」みたいな。』とは岡田自身の言だ。震災以降、絆と呼んだりして確かめようとしている我々のレスポンシビリティは、共同体の中で振る舞うべき役割behaviorと同義ではないか。どの真実(ウワサ)に加担すべきか。そのような選択/配役がコミュニケーションとコミュニケーション不全を不断に引き起こしながら、いわゆる現在を形作っているように思われる。
どこにも自分を配役できない状況は、劇中ではマイコの立場に似ている。マイコはウワサに対してもっとも中立な立場を取り、お菓子を焼いて皆に配ることで、他の登場人物とコミュニケーションを図っている。マイコのお菓子には誰も文句を言わないし、お菓子を食べている間だけは、ほっとして不安を忘れる事も出来る。しかし、マイコ自身は、その中立性に苦しんでいるのだ。「もう怒りかたに悩まなくて済むんだわ」マイコの不安が解消されるのは、新しい趣味に湖で魚釣りを始めることを決めたときだ。それはどの役割を担う人々とも接しない、閉じた生活を始める宣言でもある。ラブホテルに四泊五日閉じこもった、ミノベ君とユッキーのように。
『現在地』の必然性は、『三月の5日間』の頃から、すでに潜在していたのである。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■