特集「小説は進化する」とのこと。そうだろうか。そしてそれがそうなら、望ましいことなのだろうか。進化というのがよいことだというのは一種の刷り込みに過ぎず、物事によっては素晴らしいことではないかもしれない。変化する、ということはあるだろうが、それは当たり前だ。ただその変化が表層に留まってきるとすれば、変わらない、と言う方がむしろ正しい。
ジャーナリズムとして、だが「小説は変わらない」という特集が組めるか、ということはある。変わらないなら新たに特集を組む必要はなくなる。変わらなくても、取り立てて進化しなくても、雑誌を出す必要がなくなる、というところまではいかない。コンスタントに売れ続ける文芸誌は十年一日のごとき大衆文芸誌なのだから。進化を前提とした純文学誌がいまや風前の灯火であることは皆、知っている。
そうなると、たぶん問うべきは「特集」というシステムそのものなのだろう。「小説は進化する」などという文言を持ち出さざるを得ない「特集」という枠組みが、もとから矛盾し、いくぶん欺瞞的であったとしても、とりわけ現在の文学のあり様を際立たせるように空回りしている。
生物以外の「進化」という概念と親和するのは、言うまでもなく戦後の拡大再生産の図式である。だが文学がそのような社会の発展と歩調を合わせ、商業文芸でない、純文学的な営為も拡大再生産に乗り得るという幻想を生きたのはほんの短い数年だ。その頃に物心つき、そういうものだと刷り込まれた世代がいるにはいる。
自分もその世代に足を引っかけてはいるが、一番哀れなロスト・ジェネレーションになるのは、その辺りではなかろうか。後から振り返ると、何も残ってないことになるだろう。それは華やかだった戦後文学の最盛期に乗り遅れたからではなく、それが一時のトレンドだということを見誤り、潮目を読み違えてその価値観に固執したことからくる。何もかもが古びてみえるとはそういうことだ。
潮目を読むとは言ってもしかし、そこは実は嗅覚やら機敏さやらではなく、本質的な価値観が試されたのではないか。文学のある様相が一時の雰囲気に過ぎないと見てとるのは、文学が本来どういうものか知っている者に限られる。その雰囲気に惹かれてきた夜の虫のような連中は、それがなくなればそこにいる存在理由すら失う。どこでも生きていけない虫だからそこにいるので、最後までいるのだろう。
ロスト・ジェネレーションとはすなわちこの虫たちで、ようは何も変わっていないことを思い知らされるだけなのだ。たまたまのトレンドがなければ、そもそもそこにいなかっただろう。そんなのは世代の問題ではない。ただ、ある世代の物言いを引きずることはあって「小説は進化する」などと言わざるを得ないこともあろうか。
ここでの「小説の進化」を示すものは、だからむしろ小説の不変を表すものになっている。すなわち絵だとか歴史だとかだ。小説とは言葉でもってヴィジュアルな空間を示唆し、そこに時間軸の流れを呼び込むものなので、進化というより定義に近い。もっとも定義を問うことは、もちろん進化を論ずるよりは意味がある。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■