誰でも癖ってものを持ってるわね。大昔の映画ですけど、『ジャガーノート』っていうサスペンス・パニック映画がござーましたわ。一九七四年公開で、監督はビートルズの『ヘルプ』を撮ったリチャード・レスター様、主演はリチャード・ハリス様よ。晩年に『ハリー・ポッター』の魔法学校の校長先生を演じたことで知られますわね。アイルランド系の名優よ。
『ジャガーノート』は豪華客船に爆弾が仕掛けられるっていうストーリーなの。そんでリチャード・ハリス様演じる爆弾処理班のファロン中佐がその処理に当たるのですわ。初期のパニック映画の傑作ね。爆弾は七つ仕掛けられているんですが、ファロン中佐の部下が処理に失敗して、次々に爆死してゆきます。で、ファロン中佐は爆弾の作り方に癖があるのに気づきます。第二次世界大戦中に、巧妙な地雷を作っていたチームのそれとそっくりなのです。
スコットランドヤードが旧地雷チームを洗いざらい捜査して、爆弾犯・バックランド(ぴったりの名前ね)を特定するのですが、ファロンは最後のトラップの処理方法がどうしてもわかりません。赤と青、どっちの導火線を切ればいいのかわからないのです。無線を通じてバックランドと直接対決したファロンは、「青を切れ」と言われます。しかしファロンは赤を切って、船は沈没をまぬかれたのです。処理に成功したファロンは「Fallon is the champion」と歌うように言いますが、子供の頃の記憶では「俺は世界で一番」って字幕になっていましたわ。部下を爆死させているので物悲しい響きでしたけど、つい〝俺の勝ちだ〟っていう言葉が口から出ちゃったのよ。
こういった複雑な感情が総合された〝ピタッと来る瞬間〟は、大衆小説ではしばしばござーますわ。それが大衆小説を読む大きな楽しみでもあります。もちろん大衆小説では、作家様が謎を設定して、作家様がそれを解いてゆくのよ。謎と謎解きの連鎖だと言うことができますけど、謎と謎解きのラインが直線的でない時の方が楽しめますわね。作家様は漠然と謎と謎解きのラインを設定しているけど、その細部の過程は曖昧に揺れ動いているの。
「樹、おまえ、ほんとに涙もろいよなあ。つまんねえやつ」
「涙もろいとつまんないか」
「当たり前だろ。つまんねえし、情けないし、くだらない」
達彦は言い切る。全否定だ。達彦はよく、こんな言い方をした。容赦なく相手を攻めたてる。相手はたじたじとなったり、腹を立てたり、呆れたり、泣いたりしながら、たいていは達彦に背を向け、達彦を罵り、達彦から離れていく。
「たっちゃん、いいかげんにしなよ」
やはり幼馴染みの吉谷美鈴が時折、窘める。
「他人に向かってそこまでずばずば言っちゃうの、どうかと思う。それこそくだらないよ。馬鹿みたい。たっちゃん見てると、周り中に八つ当たりしてるだけみたいに感じる。そんなの、今時、幼稚園児でもしないから」(中略)
達彦は誰に対しても尖った言葉を投げつけるわけじゃない。相手が居高であったり、卑怯であったり、見下げるような態度をとったり、胡麻化そうとしたときだけだ。(中略)
ただ、ぼくに対してのツッコミは怒りじゃなく苛立ちからきているらしい。本人が直接告げたわけじゃないけれど、わかる。何となくだが察してしまう。
(あさのあつこ「フラワーヘブン」)
今月のオール様の巻頭はあさのあつこ先生の「フラワーヘブン」よ。あさの先生は『バッテリー』でおなじみよね。青春小説の大傑作でござーましたわ。「フラワーヘブン」の主要登場人物は、二十歳になったばかり樹、美鈴、達彦の幼馴染み三人組みです。樹が主人公ですが、彼は負の焦点として設定されています。涙もろいことを達彦に指摘され、「つまんねえし、情けないし、くだらない」と批判されます。だけどその理由が「苛立ちからきているらしい」ことに樹は気づいています。つまり樹はなにかを抱えているけど、それをストレートに表に出せない青年です。
この男の子二人の対立を融和する役割を担っているのが美鈴です。美鈴は達也は「周り中に八つ当たりしてるだけみたいに感じる」と批判します。達也もまた一皮剥けば、樹と同じように固有の自我意識を存分に発揮できていない青年だということです。もちろん美鈴だって無傷の少女ではありません。彼女は病気の母親を看取り、父と弟の面倒をよくみる孝行娘だと周囲から思われています。だけど美鈴は自分は親孝行娘なんかじゃない、「母さん、支配欲の強い人だったからね。何でも自分の思うようにしたいって、そんなタイプ」、「あたし・・・・・・母さんにすごく似てる。母さんの嫌なところに似てるの」と言います。
そんな美鈴に樹は、「あのきっと、美鈴なら淋しくないさ」と声をかけます。美鈴が中学生時代に、「とりあえず、淋しい大人にならないのが目標」と言ったことを覚えていたのです。幼馴染みですから様々な言葉を交わしているはずですが、樹はその言葉が美鈴の本心だと見抜いていたのです。美鈴は「いっちゃん、ずるいよ」、「いつももたもたして、的外れなことばっかり言ってるのに、ぽんとこっちの急所突くんだもの」と口をとがらせます。
この少年少女らしい、ちょっと乱暴で、だけどとっても繊細な心理が、一つの流れになって大きく膨らんでゆくのがあさの先生の青春小説の醍醐味です。主人公の樹に比べると、達也や美鈴の自我意識の輪郭ははっきりと強固に設定されています。しかし彼らに促されるようにして、最も心理・社会的に成長するのは言うまでもなく樹なのです。
「俺に秋庭興業をくれよ」
親爺の瞼がひくりと動いた。
「おれが継ぐ。秋庭興業の全てを譲ってもらいたい」(中略)
「ふざけたことを・・・・・・」
親爺が唇を舐める。(中略)
「おまえ、本気で言ってるのか」
「冗談で言ってるように、見える?」(中略)
「事業提案の企画書がある。親爺の体調がよくなったら見せるよ」
「今すぐだ」
親爺が吼えた。
「今すぐ、もってこい。学生の分際で生意気を言いやがって。今、おれにその企画書とやらを見せてみろ」
(同)
樹は秋庭興業の御曹司でした。ただ大企業というわけではなく、父親が一代で築き上げた会社です。法ギリギリの危うい商売によって地元で有数の企業となったのです。その父親が病で倒れたので、樹は大学入学以来、二年ぶりに父親を見舞います。その席で「俺に秋庭興業をくれよ」と言い、再建のための事業計画書があると言うのでした。
短篇ということもありかなり書き急いだ印象がありますが、樹が優柔不断な涙もろい性格から、内に秘めた強さを鍛え上げてゆくための十分な枚数があれば、あさの先生らしい長篇小説に仕上がりますわね。つまり「フラワーヘブン」には、あさの先生の小説作法の骨組みが表現されていますの。また川の支流が本流に流れ込み、それが海に、より広い世界に抜けてゆくのもあさの先生のお作品の特徴ですわ。
樹といっしょに企画書を作ったのは、高校を中退して、今では優れたIT技術者となっている達也です。そして達也の彼女は地元で看護学校に通っている美鈴だと示唆されています。紅一点で、繊細な心を持った美鈴と主人公が結ばれないのはちょっと物足りないようですが、それには理由があります。
樹は父親がかつて経営していて、今は倒産してしまったトップレスバー「フラワーヘブン」を再開したいのです。その猥雑さと美しさに心から魅了されているのです。「ナンシー・ハルさん。フィリピンのダンサー。本物のダンスが踊れる人だ。あの人のダンスに恥ずかしくない舞台をこの町に造る。ぼくはそこに拘り続けるのだ」とあります。
「フラワーヘブン」はその名の通り、樹にとっては〝天国〟です。つまり彼は実在しない至高の何かを「フラワーヘブン」に見ている。それがトップレスバーであることに、彼の複雑で、純でもある精神が投影されています。主人公が抽象理念に魅了されているから地上の愛は成就しなくてもいいということでもありますね。こういったストラクチャーはパターンですけど、パターンに沿い、やがてそれを壊し始めるところに、大衆小説作家様の面白さがあるのよ。
佐藤知恵子
■ あさのあつこさんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■