岡野隆さんの『句誌時評』『No.058 月刊俳句界 2016年05月号』をアップしましたぁ。特集『桜に魅せられた俳人、歌人』を取り上げておられます。ただまー岡野さんが書いておられるように、桜に魅せられた俳人は少ないかな。短歌(和歌)にとって桜は偏愛的花ですが、俳句ではそういった表象的花や物がないように思います。こういったところにも短歌と俳句の違いが表れているでしょうね。
水替の鯉を盥に山桜
廃屋を実家と指せり山桜
その樹下に鹿立つ夜の山桜
茨木和生「山桜」連作より
ゆりゆれて花ゆりこぼす桜かな
また一人花の奈落に呑まれけり
咲く花も散りゆく花もすべて如意
長谷川櫂「花」連作より
雑誌特集のための作品依頼だから、競詠になることは最初からわかっていることである。それを前提とすれば茨木和生氏と長谷川櫂氏の作品はさすがである。ただいずれも王朝和歌とは距離がある。茨木作品では「山桜」が「実家」として指し示すのは「廃屋」だ。長谷川氏は「咲く花も散りゆく花もすべて如意」と詠んでいる。客体化された桜の姿である。王朝的自我意識表現も俳諧的純粋客体表現も日本の詩歌の宝であり、現代詩人はそのいずれをも活用できる心性を往還すべきだろう。
(岡野隆)
俳句には俳句文学共通の、それを代表するような言葉は存在しないと思います。写生に代表されるように、世界をすべてフラットに相対化してゆけるのが俳句文学の強みです。ただそういった特徴を重々承知しながら、作家があえて俳句文学にある偏愛的イマージュを付加する方法はあるでしょうね。
■ 岡野隆 『句誌時評』『No.058 月刊俳句界 2016年05月号』 ■
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