春で四月号ということもあって、『桜に魅せられた俳人、歌人』という特集が組まれている。編集部のリード文には「日本の詩歌と世界の詩歌との大きな違いは何か? それは日本には〝桜の詩人〟が多いことである。(中略)平安時代の『古今和歌集』以降、桜は日本の詩歌の根本となった。その流れは今も続いている」とある。
俳句界の特集アンソロジーは時間をかけて作られたものが多く、いつも面白く読ませていただくのだが、平安和歌以降の歌人・俳人も桜に魅了されていたというのは正直どうかなと思ってしまった。特に俳人については、桜に特に強い思い入れのある作家は少ないのではなかろうか。桜は言うまでもなく散るから面白いのである。それが恋や美の象徴になる。はかなさは茶道にも通じる日本の重要な美意識でもある。しかし俳句の基礎を作った雅の俳聖・芭蕉ですら、桜に対する感覚は平安歌人とは違うように思う。
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平
これも言うまでもないことだが、平安和歌の黄金期は在原業平から始まる。業平が書いたわけではないが、彼がモデルだと言われる『伊勢物語』が日本の和歌物語文学の嚆矢である。「昔男ありけり その男 身をえうなきものに思ひなして 京にはあらじ 東の方に住むべき国求めにとて行きけり」という東下りの段は、それだけで一冊の本が書けるほど王朝和歌文化の精神が集約された文章である。
「えうなきもの」は「用無き者」のことである。業平は皇子だが臣籍に降下した。貴種であり、用無き者と自己認識した人が歌聖と呼ばれるようになったのは示唆的である。『日本三大実録』に業平について「体貌閑麗 放縦不拘 略無才学 善作倭歌」とあるのは有名だ。当時和歌は女性が詠むものだった。漢籍は男性貴族には出世になくてはならない教養で、女性との相聞(俗に言えば女性を口説くとき)に和歌を詠む程度だった。
だから「体貌ハ閑麗ナリ 放縦ニシテ拘ラズ 略ソ才学無シ 善ク倭歌ヲ作ル」という文章には揶揄の響きがある。美男子で奔放な行動を取り、学問(漢学)はなく、女を口説くための歌はうまい、といった意味だ。業平はあえて漢学(正統学問)に背を向けた貴公子だったのだろう。「世の中に」の歌には散りゆくものへの哀惜がある。それはもはや中央政界には居場所のない業平自身の身であり、美しい女性であり、恋であり桜である。ただ日本文学が業平以降「えうなきもの」の系譜となったのは確かである。芭蕉に至るまでそうなのである。それは桜よりも強い伝統だろう。
花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに 小野小町
小町の和歌で重要なのは、言うまでもなく「ながめせしまに」である。眺めているうちに、花の色も、わたしの美貌も衰えてしまったという意味である。この〝眺め〟は鎌倉時代に入って式子内親王偏愛の言葉になる。平安朝以来近世に至るまで、女性はじっと耐えることを強いられた。その煩悶や怒りを通り越した諦念が、眺めという言葉で表現されている。業平の歌も小町の歌も怨歌であり艶歌でもある。そこで表現されているのは歌人の強い自我意識だ。小町もまた「えうなきもの」としての生を送らざるを得ない人だった。
風さわぐをちの外山に雲晴れて 桜にくもる春の夜の月 源実朝
鎌倉幕府三代将軍源実朝も「えうなきもの」だった。将軍の実権を奪われ北条氏に暗殺されてしまう。ただ平安和歌から実朝の鎌倉時代初期には大きな和歌の変化があった。正岡子規が指摘したように、実朝和歌はほとんど俳句と呼んでいい写生表現に近づいている。「風さわぐ」の歌には確かに桜が詠まれているが象徴的意味は希薄だ。そこには死ぬことも仕事であった武士の諦念的心性が表現されている。実際、王朝和歌の系譜は実朝をもって終わる。室町に入って俳諧が発生する下地は実朝『金槐和歌集』を読めばよく理解できるはずである。
敷島の大和心を人問はば 朝日ににほふ山ざくら花 本居宣長
本居宣長は言うまでもなく日本国文学の祖である。宣長の時代は漢詩文全盛期でもあった。菅茶山を始めとする優れた漢詩人を輩出し、考証学を中心とする漢学も盛んだった。『古今和歌集』編纂の時代が漢詩全盛期であったのと同様に、漢文化に対する国粋主義文化台頭として宣長らの国学が盛んになったのである。
宣長の「敷島の大和心」は王朝和歌を遠い過去のものとして相対化している。もはや和歌全盛期は終わり、江戸の世は実質的に俳諧が主流だった。宣長を嚆矢として歌人たちは単に王朝和歌の技巧をなぞるのではなく、その精神に回帰して新たな歌を生み出そうとし始めるのである。
花の雲鐘は上野か浅草か 松尾芭蕉
此の所小便無用の花の山 宝井其角
世の中は地獄の上の花見かな 小林一茶
江戸を代表する俳人たちの句だが、王朝和歌のような雅も強い自我意識も表現されていない。むしろ其角のような下世話な句が俳諧の一つの真骨頂だろう。子規に糞尿を詠んだ句を集めたエッセイがあったと思うが、現実を裸眼で見つめるような精神が俳句を支えている。一茶は現世は「地獄」だとはっきり表現している。実朝より長生きした藤原定家の「花も紅葉もなかりけり」の境地が俳句にはあるのだと言ってよい。
水替の鯉を盥に山桜
廃屋を実家と指せり山桜
立て膝の西行よけれ山桜
小さき岩なれど磐座山桜
その樹下に鹿立つ夜の山桜
茨木和生「山桜」連作より
ゆりゆれて花ゆりこぼす桜かな
また一人花の奈落に呑まれけり
静御前
生きながら花の骸となりし人
西行庵
ある僧の花と遊びし庵かな
咲く花も散りゆく花もすべて如意
長谷川櫂「花」連作より
雑誌特集のための作品依頼だから、競詠になることは最初からわかっていることである。それを前提とすれば茨木和生氏と長谷川櫂氏の作品はさすがである。ただいずれも王朝和歌とは距離がある。茨木作品では「山桜」が「実家」として指し示すのは「廃屋」だ。長谷川氏は「咲く花も散りゆく花もすべて如意」と詠んでいる。客体化された桜の姿である。王朝的自我意識表現も俳諧的純粋客体表現も日本の詩歌の宝であり、現代詩人はそのいずれをも活用できる心性を往還すべきだろう。
岡野隆
■ 王朝和歌関連の本 ■
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■