大篠夏彦さんの文芸誌時評『No.096 文學界 2016年02月号』をアップしましたぁ。昨日のブログでも書きましたが、文学金魚は現在コンテンツ・カテゴリの改変中です。文芸誌時評も『文芸5誌』『大衆文芸誌』『カルチャー文芸誌』『専門文芸誌』『大学文芸誌』の5つのカテゴリに再編されます。『文芸5誌』については、金魚さんこと斎藤都さんのレジュメが一番手っ取り早いですね。
日本には純文学系の小説文芸誌が5誌ある。「文學界」「新潮」「群像」「すばる」「文藝」である。純文学自体は世界のどの国でも、その国の言語と精神風土を代表する文学作品のことである。いわば文学の中の文学だ。詩でも小説、評論、エセー、童話、演劇(戯曲)であってもいいわけだが、日本の場合、純文学は小説に限定され、かつ基本的には大衆文学と対立項を為す制度的カテゴリーである。
日本の純文学が制度的に見えるのは、日本のいわゆる小説文壇が、実質的に文藝春秋社主催の芥川賞を中核としているからである。芥川賞は文學界を中心として、文芸5誌で新人賞を受賞した作家に与えられる新人賞の中の新人賞だという不文律がある。文學界が最も評価する私小説系の作品に与えられることが多いため、日本では純文学は小説でかつ私小説系作品だという認知が一般化している。
(『文芸5誌について』斎藤都)
んで大篠夏彦さんの時評は実質的に日本の文壇そのものである『文學界』さんが対象です。いわゆる純文学と呼ばれる『その国の言語と精神風土を代表する文学作品(中略)いわば文学の中の文学』(斎藤都)は石川も必要不可欠だと思います。でもま、ちょっと質は変えた方がいい時期に差し掛かっていると思います。
小説になぜ事件が必要なのかと言えば、事件が起これば一定期間は人間の思考が固着するからである。(中略)その連続で小説を書いてゆけば自ずから起承転結を為す。(中略)私小説になっていない純文学っぽい内面描写小説が退屈なのは、事件が起こっていないのに人間心理が一定方向に誘導されているからだ。だから作り物めく。
またその作り物っぽさを糊塗しようとすれば、うっすらとした中途半端な内面小説が出来上がることになる。そんな尻切れトンボの曖昧な小説を純文学と呼ぶのはもう止めた方がいいと思う。(中略)一番やってはいけないのは、もう滅びかけている近過去のお手本をなぞることである。(中略)詩の世界では一昔前の現代詩をいまだになぞり続けて業界自体が存亡の危機に瀕している。詩の世界で起こったことはいずれ小説の世界でも起こると書いたが、もちろん小説家は詩人より頭がいいだろう。
(大篠夏彦)
小説であれ詩であれ、純文学が元気がなければ文学の世界は本質的に盛り上がらないと思います。その盛り上げ方法は複数あってもいいはずです。私小説=純文学という不文律はわかりやすいですが、やっぱ無理があるなぁ。ただこの不文律を変えるには、それに代わる純文学の定義が必要になります。作品と批評の同時進行でなければそれは提示できないでしょうね。
■ 大篠夏彦 文芸誌時評 『No.096 文學界 2016年02月号』 ■
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