今年の後半はアメリカ人の方が世間の話題をさらうことがおおござーましたわね。トランプさんが筆頭ですけど、ボブ・ディラン先生のノーベル賞受賞もそうよ。アテクシのような日本人は「まぁぁっ! ディランセンセ、おめでとうござーます」と思っちゃうんですけど、アメリカやヨーロッパではけっこう批判が巻き起こりましたわね。その中に「ディランはノーベル賞を必要としていないが、ノーベル賞はディランを必要としている」という皮肉がありましたわ。本が売れなくなっているのは日本だけじゃありませんの。先進国では世界的現象です。だけどディラン先生がノーベル賞を受賞しても、本全般が売れるようになるとは思えませんわねぇ。
ノーベル文学賞って政治や民俗思想を表現した作家に授与されることがおおござーますけど、いわゆる純文学の賞よね。ローリング女史が候補になるのは今のところ考えられませんわ。だけど日本に限らずアメリカの純文学もちゅまんないのよ。アメリカには日本のような純文学概念はないみたいですから、エンタメ系小説との差別化を念頭に置いた小説って言った方がいいかしらね。でも純文学のお作品は、読んでいて「これってなんかの修行なの?」って感じることもありますわ。アテクシ意外とマゾですからそういう読書も好きですけど、ホントに修行したいなら禅寺に行くわね。
ディラン先生のノーベル賞受賞は、世界的な文学評価の流れが変わったというサインかもしれませんわ。エンタメ小説的要素を削ぎ落としただけじゃ、もう誰も純文学と思ってくれないってことよ。これだけ本が売れなくなっている世の中じゃ、面白くて、それプラス読み終わっても何か心に残る要素がある小説が純文学とみなされるようになるのは自然の流れよね。本(物語)というコンテンツを中心にして、映画やドラマ、アニメなどのビジュアル・コンテンツにまでそれが広がってゆくのが表現の基本ベースになるわね。それが基本になっちゃえば、逆に本(文字)でなきゃならいっていうコンテンツが生まれてくるわ。今は純文学とか大衆小説の定義が変わり始めた時期ね。
もひとつ面白かったのは、あれだけの大スターなのに、ディラン先生に直接コンタクトできる人がほとんどいないらしいってことね。アメリカのショウビズ・メディアはパパラッチなんかで有名ですけど、ディラン先生はアンタッチャブルみたい。古舘伊知郎さんが「そんなにディランの気持ちが知りたいなら、ノーベル賞関係者がコンサートの出待ちして確認したら?」とおっしゃってたけど、そのとおりよねぇ。ディラン先生は日本だと東京ドームがいっぱいになっちゃうくらいの人気ですけど、最近は千人くらいの小ホールでのコンサートを精力的にやっていらっしゃるようなの。これも現代らしいといえば現代らしいわぁ。
今は情報化時代でマスメディアの力が強いですけど、その反面、人間の興味が細分化されている時代よね。去年くらいからBABYMETALとかでんぱ組.incが売れ出したけど、知らない人はぜんぜん知らないわ。それはかなりのビッグ・ネーム・アーチストだって同じよ。逆にいえば、そんなに売れてないアーチストだってやり方によっては活動していけるの。少数でもコアなファンがつけば、そこそこの経済的裏付けが得られるってこと。当たり前ですけど、プロデュース母胎が巨大組織だとそれに見合う収益が必要ね。だけど小さかったら目標収益額は低くてもいいわ。出版の世界でもそういった動きが出るのは時間の問題よ。またマスメディア時代ではありますが、マスメディアがヒット作を出していける時代では必ずしもないわ。
ディランさんは六〇年代の『ザ・ベースメント・テープス』の時代から、できるだけ自分の思い通りに活動していらした方ですわ。彼がやっている小規模コンサートは今の時代に合ってるわね。今はどうしてもアリーナ埋めなきゃならない時代じゃないですわ。コアなファンを大事にすればいいのよ。それにはもちろん創作者が聴衆や読者を惹きつける力を持っていなければならないわ。だけどそういう力を持っている創作者は、必要以上に節を折ったりおもねったりしなくてよくなるわね。ディランさんが神話的ミュージシャンだっていうのはそういうことよ。世間的な常識を越える力をお持ちだってことよね。人任せじゃなくてご自分で意志決定ができるのよ。
原節子と小津安二郎が出会っていなければ、日本の映画史は、いや、世界の映画史は『晩春』『麦秋』『東京物語』の紀子三部作を持つことがなかった。(中略)『晩春』は、古都鎌倉に住む学者の父と一人娘紀子の物語で、原節子は男やもめの父親を(自分では気づかずに)恋人のように想う嫁き遅れた娘のナイーブでかつ複雑微妙な感情を抑制された演技で完璧に表現した。(中略)父親と知り合いの未亡人と一緒に観世流の能舞台を見る場面に接してみて頂きたい。あなたはそれまでの美人スターが一カットごとに示す完璧な表情によって不世出の大女優に変身する過程を目の当たりにすることになるだろう。
(長部日出雄『原節子の全体像』)
今月号では久しぶりに長部日出雄先生の映画エッセイを読むことができて、とぉっても嬉しかったですわ。原節子さんは日本の映画スターではほぼ唯一、引退してからまったく表舞台に現れずに生涯を終えた大女優さんです。下世話なことを言えば、そうしなくてもいい経済的裏付けを持っていらしたってことよね。だけどそれって矜持を保つためにはとっても大事なことだわ。そして彼女をそっとしておいてあげようという友人に恵まれた、あるいは彼女が他人にそうしてあげようと思わせる素敵な人格の人だったってことね。原さんと一緒にお仕事をした人は、その後の日本映画界などで重要なポジションについたわけですから。原節子さんは謎めいた生涯って言われることもあるけど、ディラン先生と同様に、自分の思い通りに人生を生きることができる力をお持ちだったのよ。
誰かが見ている。
そう葛城晃が最初に気付いたのは、春まだ浅き三月の半ば頃だった。
まもなく、大学の最終学年を迎えようとしていた短い春休み。
彼は元々周囲の雰囲気には敏感なほうである――恐らく、幼少期の過ごし方や体験が特殊だったせいであろうが、特に生存を脅かす悪意や殺意といったものに、かなり正確かつ鋭敏に反応した。
そして、奇妙なことではあるが、それが彼にとっては、ごく自然で親しい感覚だった。普通の子供が感じる愛情や慈愛といった、無意識のうちに求めるものが、彼にとってのそれであったのだ。苦痛も動揺も感じない。ただただ見慣れた、よく知っている感覚。
その時も、身体は既に反応していた。
誰かが見ている。俺のことを。
(恩田睦『夜間飛行』)
謎っていえば、恩田睦先生の『夜間飛行』はほぼ完璧なサスペンスタッチの出だしね。主人公の葛城晃は大学四年生になりかけで、これから進路を決めなきゃならない若者の設定です。そして彼は他人の視線を敏感に感じ取れる特殊な才能を持っています。それは今に始まったわけではなく、彼の幼少期に遡る、恐らく暗い過去の生活の遺産だということが示唆されています。小説の冒頭だけで、特殊な才能を持った青年が進路を決定するような出来事に巻き込まれ、その過程で彼の過去がじょじょに明らかにされてゆくということがわかりますわね。
もちろんこれは典型的な大衆小説の出だしですわ。だけど大衆小説はここからが勝負なの。主人公の浮き世離れした特殊な才能や特異な幼少体験が、どうわたしたちの現実生活と結びつき、その本質のようなものが露わになるかが問われているってことよ。もちろん恩田先生のお作品ですから、わたしたちの期待を裏切ることはないでござーますことよっ。
佐藤知恵子
■ 長部日出雄さんの本 ■
■ 恩田睦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■