人間の感情ってとぉっても複雑ですわ。でも複雑な感情も、分解すれば原理的感情が組み合わさっていることがおおございます。憎みながら愛し合っている(深い相互理解があるから憎しみが生じる)とかが典型ね。それだけ嬉しい、悲しい、寂しいっていう人間の基本感情は強いのよ。プロの作家様ならキャリアを重ねるにつれ、より複雑な人間感情を表現したくなるのは当然だと思いますわ。だけど何事も基本が大事よ。人間の基本感情を正確に、効果的に表現できない作家様が、より複雑な感情を表現できるとはちょっと考えられませんわね。
それに、読者のことも少しはお考えにならなければいけませんわ。現代では朗読を聞いて本を読む読者はまずいません。一人で本に向かうの。電車の中で本を読んでいても読者は孤独よ。ですから孤独や寂しさは本(読書)ととっても相性がいいの。笑い(楽しさ)は他者と共有できますけど、孤独と寂しさは人間一人一人のものなのね。あ、恐怖も本と相性がいいわ。他者と共有できる恐怖って、正確には集団パニックだわよ。自分だけに理解できて、自分だけに襲いかかってくるような恐怖が怖いの。映画館でしかホーラー映画を観たくないっておにゃの子は多いですわ。
極端な悲しさや怖さを表現するためにはある程度の長さが必要ね。途中まで理詰めで押してゆかないと、どん底のような悲しさや怖さは表現できないの。だけど良質の長篇小説をお書きになる作家様って、やっぱり短篇もお上手ですわ。短篇は軽い読み物ですから、サラリとした切なさを表現することがおおございます。でも扱っているテーマは基本的に同じで、かつ枚数が限られていますから、長篇よりもサクサクと物語を進めていかなくてはなりません。無限にプロットを創造できて、読者の意表を衝く飛び道具を用意できる作家様でなければ、優れた短篇作家にはなれませんことよ。
『人間不信になりそうでヤバか。ミサキとは中学からのつき合いなんやけど』
送信ボタンを押すと、すぐさま同情や共感、安っぽい慰めの言葉が寄せられる。アタシはそれら一切を無視して、続きを打った。
『男とは別れた関係切れるばってが、友達ちゃそうやなかろ? みんなとの友情は、一生もんや思うとる。でもミサキとは、これからどけんしたらいいとやろ』
アタシはミサキに思い知らせてやらなきゃいけない。誰の男と寝たのかを。しかも襖一枚隔てただけの、隣の部屋で。
『許すことないやん!』『あたしも、ミサキち前から好かんかったわ』『わかる-。男いると髪いじる回数ロコツに増えるけんね』『エラ隠すの必死すぎやん』
ミサキは自分のことを嫌いだと言いながら、本当は好きでたまらないタイプだ。たとえば浅く切った手首の傷を、うっとりと眺めちゃうようなヤツ。
はっきり言って、同性からはめったに好かれない。これまではアタシというストッパーがいたからハブられもしなかったけど、アタシが手を離したらどうなるんだろう。
『ごめん、充電なくなるけ。ちょい落ちる』
ほどなくしてスマホの画面がブラックアウトした。
(坂井希久子「We are the Champions」)
「We are the Champions」の主人公は高校二年生で十七歳のマリエです。福岡に近い寂れたかつての炭坑町に住んでいて、タカヒロという彼氏がいます。ちょっとグレかかったヤンキー仲間とつるんで遊んでいます。タカヒロのアパートで飲み会をした翌朝、マリエはタカヒロと中学時代からの友人・ミサキが素っ裸で寝ているのを発見します。アパートを飛び出すと、マリエはすぐさまラインでタカヒロとミサキの浮気を罵ります。たちまち女友達のグループができあがります。みんなマリエに同情しますが、非難の矛先はなぜかミサキに集中します。それを読んだマリエの心は〝ブラックアウト〟するのです。
杓子定規に言うと、ヤンキー仲間の頭の悪い〝不品行〟として描かれていますが、坂井先生が書いておられる原理は普通の子どもたちの中で起こるイジメと変わりません。子供から大人まで、人間が集まれば必ず力関係が生じます。大人の場合は社会的地位や金に左右されますが、子供の世界では美男美女だとか頭がいいといった長所すらイジメの対象になります。ミサキがイジメの対象になったのは、女がグループになっても男のタカヒロを〝締める〟のはリスクがあるからです。タカヒロがリーダー格のマリエの彼氏だからでもあります。またタカヒロと寝たミサキが思春期の女の子らしく、男の前で可愛くいようとするのが鼻につくからです。さらに女の子たちは、ほかならぬマリエがミサキの保護者であり、それゆえ彼女がグループ内で特権的立場にいることに気づいています。マリエの保護がなくなったので一気にミサキのつるし上げが始まったのです。
こういったお作品では細部が重要になります。言葉は悪いですが、小説ではお馬鹿な人たちを描く方が、頭のいい人間を描くよりも遙かに難しいのです。マリエは主人公であるがゆえに、当然、グループの論理を上か下に〝抜ける〟役割を担わされています。しかもグループの論理に首までどっぷり漬かりながらです。マリエの五歳年上の姉は「元レディースで、総長を決めるための度胸試しでアソコに根性焼きをして認められたという、イカれた伝説を持っている」女性です。今は元族の男と結婚して、生まれた男の子に本気という名前を付けています。今は族から足を洗い、社会人として暮らしていますが、「地元サイコーやん、仲間サイコーや」と言って、毎週土曜日に河原でバーベキューをする姉夫婦を、マリエは冷めた目で見ています。ただ下に向かっても同じことです。
マリエはスマホに充電させてもらうために、同級生のマサコのマンションに向かいます。マサコは高校生ですがプロの売春婦をしています。誰ともつるまない一匹狼です。マサコもマリエたちのラインを読んでいますが、「こげん周りば巻き込んで、どげんするんね?」「ミサキが悪か。ばって、マリエとミサキとその彼氏で解決すりゃよかことやんね。『仲間内の裏切り』という問題にまで、話を拡げんでもよかったち思うばい」と言います。充電を終えてマンションを出ようとするマリエに、マサコは「殺さん程度で止めときね」と言います。「マサコに注意を促されて、思い知った。ミサキを無傷で帰す、という選択肢は、もうないんだってことを」とあります。
「マリエ――」
ミサキは首をひねって、なおも許しを乞おうとする。その耳元に、アタシは素早く囁きかけた。
「痛い思いばさせて悪かばってん、なるべく早ぅ気ぃ失ってや」
ミサキの口が「え?」の形に開く。アタシが目だけで頷き返すと、唇を引き締めた。どうにか意図は伝わったようだ。(中略)
「ウチらサイコーや!」つって、仲間内でナメられないように肩肘張ってても、外の人間からは白い目で見られている。アタシらよりちょっとだけ聡明なマサコだって、たぶん同じだ。(中略)
アタシは拳を握り直して、ミサキと向き合った。
ミサキ、これが終わったら抜けだそう。この負のループから、もっと光の当たる場所に。
ミサキが「にゃああああ!!」としか聞こえない奇声をを上げて向かってきた。鉄パイプの先がこめかみをかする。
アタシはとっさに顎を引き、覚悟を決めて一歩前に踏み出した。
(同)
頭の固いPTAのようなことを申しますと、「We are the Champions」には、社会的にいわゆるlowerの女の子が、自分が置かれた環境をすべて受け入れた上で、そこから抜け出そうとする〝希望〟が描かれています。ただすべての人間は生まれてくる時代と環境を選べないのです。裕福なupperの家庭に生まれるかもしれないし、両親や兄弟との関係が複雑で経済的に貧しい家庭に生まれてしまうかもしれない。中には挫折知らずで大人になる子もいるでしょうが、upperだろうとlowerだろうとほとんどの子供が挫折を経験し、そこからの転換を迫られる正念場があります。マリエはその正念場で希望の方に舵を切ったのです。
ただマリエの「覚悟」は切ないですね。この覚悟が本当に希望に向かってくれるのかは誰にもわかりません。それもまた、わたしたちが良く知っている世の習いです。小説に即せば、この「覚悟」の先を描くのが長篇小説の役割ということになります。だけど人が「一歩前に踏み出し」続ける限り、希望が失われることはありません。
前に坂井希久子先生の「HERO」を取り上げさせていただきました(No.020 オール讀物 2015年06月号参照)。「HERO」の主人公は青森の女子高生で、青森弁がふんだんに使われていました。今回の「We are the Champions」の舞台は福岡で、登場人物たちはみな福岡弁です。ささやかですけどこういった点も作家様の実力ね。坂井先生の懐の深さがよくわかるお作品ですわ。
佐藤知恵子
■ 坂井希久子さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■