「オール讀物」様十月号の特集は「官能昭和館 エロスとノスタルジー」ですわ。有名な熱海秘宝館のグラビア付きですことよ。インターネットでエロ画像・動画見放題の現代では、熱海秘宝館とエロ小説は似てるところがあるわね。ポルノが「性的興奮を引き起こす画像・動画・文章」という定義なら、どちらも絶滅寸前よ。いまどき性的興奮を得るために熱海秘宝館に足を運ぶ方はらいらっしゃらないわよね。ちょっと前の先人たちの涙ぐましいエロ努力を見て楽しみ、クスッと笑うために行くのよ。いくらオール様の主要読者が時代から取り残された活字好きの高齢者とはいえ、官能小説がエロだけではもたなくなっているのと同じね。
とまぁお上品に始めちゃったけど、アテクシ、官能小説って嫌いなのよ。要するに中途半端ね。現代小説で男と女が出てきて、性描写がまったくないっていうのもそりゃぁ不自然よ。でも長々と続けるためには、そこにセックスを超えた精神的意味がないとダメね。アテクシ、映画のDVDを見ていても、ベッドシーンは早送りしちゃうことが多いの。じっくり見るのは全盛期の美人女優さんが出演なさっている時だけね。欧米映画は日本映画ほど保守的じゃないですが、一番綺麗な頃のニコール・キッドマンのベッドシーンなんかは、「マジ、どこまで脱ぐの?ギャラ高いだろうなぁ」と思って見てしまいますの。小説家も女優さんもお仕事ですからね。
ポルノはその99パーセントが殿方による女性(性)幻想ですわ。もちろん世の中には男と女しかいませんから、女性が能動的に、ということは自らの意志でセックスの世界に足を踏み入れることもございます。その場合、女性はほぼ必ず男性の女性幻想を利用しているの。作家様が男性だろうと女性だろうと、そこを踏まえなければ官能小説は体を成しませんわね。淫乱女は殿方が大好きな女性幻想ですけど、そういう女は現実世界では精神的に壊れた女性よ。そんな女性とお付き合いできるのは、やっぱりどこか壊れた男性でないとムリね。便利な女なんていませんの。殿方だって自分のお腹に手をあてて、三秒も考えればおわかりですわね。
なせならあの頃のあたしには、失うものは何もなかったから。正輝と出会う前までは、自分自身さえさほど重要なものではなかった。正輝、それに正輝と一緒にいるあたしが、あの頃のあたしの持ちものだった。それだけあればよかった。
あたしたちは始終セックスしていた。(中略)
はじめの頃、あたしたちは――すくなくともあたしは――お互いに夢中なのだと思っていた。それから、自分たちはセックス中毒なんじゃないかと疑った。でも、今になって思い返せば、あたしたちは日々を塗りつぶすためにセックスしていたのだった。黒く塗りつぶすために。
(井上荒野「古い日記」)
井上荒野先生の「古い日記」は、そのタイトルにあるように主人公の〝あたし〟の回想形式です。「あの頃はふたりとも若かった。あたしは十九で、正輝よりうんと若い気でいたけど、その正輝だって、二十二歳だったのだ」とあります。あたしはお弁当屋さんでアルバイトをしていて、ときおり弁当を買いに来る正輝と知り合ったのです。ナンパされたのですね。正輝は「携帯の番号とか、俺に教えてみたら?」とあたしに言い、あたしが教えてやると気まぐれに電話してきて「俺に会いたかった?」と言います。「べつに」とあたしは答えますが、その日のうちに正輝と会ってセックスし、彼のマンションに転がり込みます。
正輝はいわゆるオレオレ詐欺の受け子(被害者からお金を受け取る役割)の仕事をしています。携帯もマンションも元締めから与えられたもののようで、部屋にいてひたすら電話がかかってくるのを待っています。その間のほとんどの時間を、あたしは正輝とセックスして過ごします。セックス好きの淫乱だからではないのは、どなたもおわかりですわね。「正輝、それに正輝と一緒にいるあたしが、あの頃のあたしの持ちものだった」とあるように、理由はわかりませんがあたしは絶望しています。でも「それだけあればよかった」とはどういうことでしょうか。
あたしたちはふたりきりだった。
あたしが感じていた、不安定な場所に置かれた卵の感覚は、結局のところあたしたちふたりのものだった。あたしたちは二つの卵だった。
ふたりきりであることを幸福だと思えたのは最初の頃だけだった。そのうちそれは圧倒的な寂しさになり、最終的には恐怖になった。
もちろんあたしたちは、いつでもよそへ行くことができたのだ。(中略)
でも、あたしたちは動けなかった。感じまいとしてきたことが、あたしたちには多すぎた。動けば感じてしまうことがわかっていた。感じてしまえば、そこなわれてしまう。
何が?――愛が、とあの頃あたしは思っていた。(中略)自分を今の生活に留めているものは愛だとあたしは自分に言い聞かせながら、愛なんてない、これは愛じゃないと、心の奥底でひそかに認めていたのかもしれない。
(同)
正輝は未必の故意であたしを選んだ、あるいはあたしは受け身のふりをして正輝に選ばれてやったことがよくわかる描写です。正輝は絶望している女の気配を感じてあたしに声をかけ、あたしは正輝もまた孤独で、彼と付き合えば自分から決して目をそらすことがないとわかっていたのです。だから二人のセックスは孤独の裏返しです。でもそこに愛がなかったとは言えないと思います。
「あたしたちは二つの卵だった」とあるように、あたしはいつかハンプティ・ダンプティのように塀の上から落っこちて、二人の生活が壊れてしまうことを予想しています。また二つの卵は壊れなければならないのです。しかし卵であった時期、言い換えれば極限まで外の世界を遮断して、二人きりでいた繭のような世界に愛がなかったとは言えません。それは脆く壊れやすいですが、それゆえに究極の愛の世界だったと言えるかもしれないのです。
だから「これは愛じゃないと、心の奥底でひそかに認めていたのかもしれない」というあたしの告白は反語です。正確に言うとあたしが考える愛の質が変わっています。あたしは愛とはお互いを思いやり、安定した生活を送るための、平穏な精神状態であるはずだ、あるべきだと考え始めたということです。だけどあたしは相変わらず必ず壊れてしまう脆い卵のような愛に惹かれています。正輝との関係は「愛じゃない」と回想しながら、あたしは恐らく今に至るまで別の〝愛〟を見つけられていない。
井上荒野先生はオールにも文學界にもお書きになる作家様です。そのいずれでもお作品が巻頭近くに置かれ、少なくとも文藝春秋社の編集者の皆様の期待が高いことがなんとなく伝わってきます。アテクシも僭越ながら、荒野先生は素晴らしい作家様だと思いますわ。ただ正直に言えば、あと一歩突き抜けないわねぇ。なぜかしら。アテクシ井上先生の、思いきりお馬鹿で愚劣で猥雑で、それでいてものすごく純愛のロミオとジュリエット物語を読んでみたいですわぁ。
鶯谷のホテル街に清志が初めて足を踏み入れたのは、一九八四年のことだった。
清志は福島県の農家で生まれ育ったものの、小学生の頃に白血病を発症して、二十年にわたる闘病生活を送った。(中略)
東京に来てからは山谷のドヤに泊まりながら、新聞や雑誌の求人広告に片っ端から応募したが、体が弱く就労経験もないため、なかなか受け入れてもらえなかった。五十件以上面接で落とされた末に唯一受かったのが、キャッスル・シティーだった。
当時、このホテルは開業五年目で、「城の都」という名前だった。(中略)
オーナーは五十歳になる在日韓国人の朴夫婦で、二十人ほどの従業員を雇って「鶯谷荘」に住まわせ、家族のように面倒をみながらホテルを取り仕切っていた。ラブホテルに障害者が多く働いていたのは、ベッドメイクや清掃の仕事は接客の必要が少ない上に、国から障害者雇用の助成金が出るためだった。
(石井光太「鶯の鳴く家」)
石井光太先生の「鶯の鳴く家」は、日本有数のラブホテル街の鶯谷にある、さびれたラブホテルで働く清志の物語です。現代とは思えないほど古色蒼然とした雰囲気ですが、まだこういった世界は〝ある〟と思わせる説得力があります。どんなビジネスにもノウハウがございますが、石井先生がお書きになっているように個人経営のラブホでは、障害者や、更正したけれど前科の関係で、なかなか職に就けない方を従業員にお雇いになることが多いですわね。ラブホテルは物語の宝庫ということでもありますわ。
ただ日常的にセックスをビジネスとして扱う人々の物語ですから、殿方が期待するようなポルノグラフィックなところはちっともありません。経営者の朴さんはもちろん、清志ら従業員らも、お客様に喜んでいただくために毎日精一杯働いています。でもセックスは、特に十分な知識と防御能力のない子どもたちにとってはやはり危険です。「鶯の鳴く家」ではセックスによって生計を立て、それが日常になってしまった大人たちが、やはりセックスによって足元をさらわれる様子が鮮やかに描かれています。
こういったお作品は情報小説としても楽しめますわね。アテクシたちは良くも悪くも、ほんの少しの世界しか知りません。たいていの人間は、二つか三つの仕事をしてリタイアするのが普通だと思います。小説はそんなアテクシたちを知らない世界へと連れて行ってくれます。石井先生の「鶯の鳴く家」はヒューマニスティックな方向に物語が進みますが、これだけリアリティのある小説なら、最終的に希望を描こうと絶望を描こうと同じことね。
佐藤知恵子
■ 井上荒野さんと石井光太さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■