池田浩さんの文芸誌時評『No.015 新潮 2016年04月号』をアップしましたぁ。東日本大震災から5年たちました。『新潮』さんは『震災から五年。忘却に抗う。』といふ特集を組んでおられます。ん~難しい問題ですねぇ。被災者はぜんぜん忘却なんてしてないですよ、と言うと、なんだか揚げ足取りっぽくなってしまいますが、そもそも文芸誌が震災特集を組む必要があるんでしょうかねぇ。
池田さんは『なぜそこにフィクション化というクッションを置くのか。誰もがあのときは、〝事実〟にしか心を動かされなかった。にも関わらず、ひ弱な物語を紡ごうとした理由が、小説家だから、というなら手法と目的の取り違えだし、文芸誌も雑誌の棚に置かれる以上、ジャーナルとしての見出しが必要で、作家としてその要請を受けたという事情は、少なくとも我々の知ったことでない』と批評しておられます。石川は出版社側の事情もよくわかりますが、池田さんが書いておられることもよく理解できます。
文字情報は遅れを伴います。また文字には必ず修辞が混じります。衝撃的な映像は人の精神を停止させるほどの力を持ちますが、ニュースだろうと文字情報で人に何かを伝えようとすれば、そこには必ず書き手の意志が入り込みます。単に事実の羅列では人に読んでもらえない。ドラマティックな修辞を使い、絶望や希望といった人間共通の感情を文章にスリップさせる必要があります。小説のようなフィクションで震災を描こうとすれば、もっとハードルは高くなります。映像の衝撃は求めようもないし、ニュース情報はみんなもう知っている。『何のためにフィクション化されなくてはならないのか。フィクション化するという小説に特有の手法は、それによって何に迫ろうとしているのか』(池田さん)が問われるのです。
池田さんは『問題にすべきは、あのときの「震災以降の文学」というものがある、という文芸ジャーナリズムのスタンスだ。5年経った今、「震災後文学」は文学の世界をどのように変えたのか。それが本当に存在したなら、今こそジャーナルとして検証すべき時期にあるだろう』と批評しておられます。その通りだと思います。文学の世界、震災後もまったく変わっていません。それは震災文学が不可能だということを示しているのか、これから現れるのかは石川にはわかりません。ただ新しい認識パラダイムを有していなければ、それは〝震災以降の文学〟と呼ぶに値しないでしょうね。
震災はインターネット時代に起きました。あの時わたしたちは、〝表情報〟がいかに信用できないのかを思い知らされました。また〝裏情報〟が、ささやかなものであれ、いかにいい加減で、時には人間の悪意に満ちたものであるのかも見せつけられました。ただ震災からしばらくたって、誰の反論も許さないような大文字の〝絆〟が強調され現在に至っています。でも現実は違うでしょ。
震災で生き残った者には現実の生活が待っています。それは相変わらず滑稽でグロテスクです。その中には震災で滅びてゆく弱者もいれば、強者に成り上がった人もいます。戦後の無頼派ではないですが、文学者で本当に勇気のある者は、通りのよい大文字の理念ではなく現実を見つめ、そこで本当は何が起こっているのかを、現在から未来に伸びるヴィジョンを持って描くべきでしょうね。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.015 新潮 2016年04月号』 ■
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