純文学エンターテイメント作家、遠藤徹さんの新連載小説『ゆめのかよひじ』(第01回)をアップしましたぁ。遠藤徹さんによる、全編ひらがなの新連載小説です。と言っても『ゆめのかよひじ』は前衛文学ではありません。小学生の女の子が主人公で、彼女の独白体を取っているのでひらがな表記になっています。ただ作品を読んでいただければわかりますが、この作品はファンタジー的なエンタメ小説ではありません。作家がその核心的な思考や感情を表現している〝純文学エンターテイメント〟作品です。
遠藤さんの『ゆめのかよひじ』のやうな作品は、石川に勇気を与えてくれます。石川一人で決めたことではありませんが、文学金魚はまず、停滞した文学界に新たな息吹を吹き込むことを目標としています。その大きな柱が〝総合文学〟です。文学をジャンル別にではなく、総合的に認識把握できる作家を輩出するといふことです。詩という文学があり小説といふ文学があるわけではなく、作家が世界の中の〝何を〟表現したいのかによって、詩や小説といったジャンルが必要とされます。この総合文学的姿勢は各ジャンルの内部にも適用されます。純文学といふ小説はないし、エンタメといふ小説はない。小説は小説です。
もちろん純文学やエンタメ小説は厳然と存在します。その区分は必要ではありますが、本を売りやすいといふ都合で作り出されたものでもあります。杓子定規なまでに本質的なことを言えば、作家は言葉で表現したい思想や感情があるので物書きになります。その核心が表現できるのなら、表現形態が純文学かエンタメかは問わないのです。しかしながら文学業界が不況になってから、作家とジャンルの関係は逆転しています。文語体や平仮名表記のように、テニオハを変えれば純文学になるわけではありません。SF的内容だったり、殺人などの突飛なことが起こればエンタメになるわけでもない。制度的文学ジャンルの区分けではなく、作家の核心の有無が純文学とエンタメ小説の敷居です。
純文学小説や現代詩の作家たちは、発表場所がなく本が売れずに苦しんでいます。ストレートに言えば、純文学を漠然と無意識的に、現存メディア制度の枠組みに沿って考えている限り苦しい状況は続くと思います。しかし作家が〝自らの核心を表現するのが純文学だ〟という認識系の転換を行えば、状況は変わってくるのではなひかと思います。作家に核心を表現するのだといふ確固たる自覚があれば、表現様態――つまり純文学かエンタメかといふ違いはあまり問題にならなひからです。〝純文学っぽい作品を書こう〟などといふ俗な気持ちは捨て去る方がいい。そうすれば様々なタイプの作品を書けるようになります。
ただ作家が純文学・エンタメを問わず様々なタイプの作品を書き、かつ読者がそこに一貫した思想や感情を感受できるためには作品を量産する必要があります。作家は当たり前ですが、書くことによって道を切り開かなくてはなりません。しかしメディアの力でデビューさせてもらい、大々的に宣伝してもらい、スター作家になるなどといったことを夢想していたのでは埒があきません。セカチューや『電車男』や『火花』(多分)などを例にするとちょいと申し訳ないですが、でも核心がなければ一発屋で終わってしまふ。文学金魚は核心を持つ作家をプロデュースするメディアです。どんどん書いてもらい、その作家の核心が誰の眼にもわかるようにしてゆきます。純文学エンターテイメントは文学金魚の方針でもあるなぁ(爆)。
■ 遠藤徹 新連載小説 『ゆめのかよひじ』(第01回) pdf版 ■
■ 遠藤徹 新連載小説 『ゆめのかよひじ』(第01回) テキスト版 ■
■ 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)は3月31日〆切です ■
金魚屋では21世紀の文学界を担う新たな才能を求めています。
小説はもちろん短歌・俳句・自由詩などの詩のジャンル、あるいは文芸評論などで、思う存分、新たな世界観、文学観を表現したい意欲的作家の皆様の作品をお待ちしております。