鶴山裕司さんの文芸批評『東洋学ノススメ』『No.001 日本文学の原点-馬場あき子中世文学論(上編)』をアップしましたぁ。新年1月1日にアップした、歌人で思想家の馬場あき子さんに関する評論です。馬場さんのインタビューは大評判でした。世の中には素晴らしい表現者の皆さんがたくさんいらっしゃいますが、従来とはちょっと切り口を変えないと、その魅力が伝わりにくくなっている時代だと思います。もちろんインタビューには鶴山さんにも加わっていただいています。
鶴山さんの馬場あき子論は『東洋学ノススメ』の連載評論(連続思考)の一つです。鶴山さんは同タイトルでイスラーム哲学者の井筒俊彦さんに関する評論を書いておられますが(「三田文學」2009年冬号)、この連作は「欧米文化の流入によっても変わることのない、日本文化の基層を検討する」ためのものです。鶴山さんは文学金魚で現代小説論『アトモスフィア文学論』も抱えていて、こちゃらも江國香織論や西村賢太論などを書いていただかなくてはならなひのですが、他にも仕事がてんこ盛りなんだなぁ。ただこういった形で一つずつ仕事を積み重ねてゆけば、いつか仕事がまとまるでしょ(爆)。
馬場あき子論前編で鶴山さんは、『極論を言えば、〈浄土〉と〈地獄〉は観念という点で同質である。そのため仏教説話ではしばしば〈仏〉と〈鬼〉が交わり合う。(中略)しかし浄土も地獄も決して人間の前にその姿を現しはしない。撞着的な言い方になってしまうが、死によって断ち切られるまで、そこには無間地獄のような〈生〉の苦しみしかない。馬場は地獄について、そこには「〈死〉というものがない」、「それは不死身で、しぶとい。そして醜く卑しいながら、ふしぎに確実な、手ごたえのある生命感をどろどろと底流させている」と書いたが、それは本質的に、裸眼で人間の生を見つめた際の過酷な現実認識である』と批評しておられます。
それでは日本には欧米的な神的救済概念は存在しないのか、もしあるとすればそれはどういった質のものであるのかといふのが、馬場あき子論中、下編のアポリアでありますぅ。
■ 鶴山裕司 文芸批評 『東洋学ノススメ』『No.001 日本文学の原点-馬場あき子中世文学論(上編)』 ■