池田浩さんの文芸誌時評『No.012 三田文学 2015年秋季号』をアップしましたぁ。池田さんは『ジャーナリスティックに振る舞おうとするとき、季刊というのは非常にペースを乱す。季刊誌というのはそもそも雑誌の形態をした書物か、もしくは同人誌に相応しい。世界が動いていることを示すには端から向かない。一ヶ月単位で切り替わりながら、その度に真摯な身振りを示す方がもっともらしい、というのがジャーナリスティックというものか』と批評しておられます。
確かにそうなんだよなぁ。石川も季刊誌を編集したことがありますが、けっこうやりにくい。書物的な重みを目指さざるを得ないんですが、んなことをすると編集者の作為が先走ります。で、そういう意図に付き合ってくれる著者などめったにいません。季刊形態は、数人の同人がしゃかりきになって○○特集なんかを組む時の方がいいのかもしれません。でも年4冊、書物的形態の季刊雑誌を出せる同人誌など存在しないと思いますけどね(爆)。
雑誌と書物の違いは、雑多な作品(著者)が入り交じった紙の束か、一人あるいは一つの編集部の明確な意図に貫かれた書物形態であるかの違いだと思います。季刊誌はどちゃらも中途半端になってしまふといふ苦しさがあります。『三田文学』さんは、その苦しさをなんとかクリアしようと悪戦苦闘しておられるやうです。ただま、季刊だとドーンとした特集プラス作品の方が、結局はインパクトが強いかもしれまへん。紙数の半分以上を割いて井筒俊彦特集とか遠藤周作特集を組んで、後は三田出身者の作品を載せるといったやり方ですね。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.012 三田文学 2015年秋季号』 ■