セックス小説特集ということだ。セックス小説、とは聞き慣れないジャンルではある。いわゆる官能小説、ポルノ小説とどうちがうのか。
確かに官能小説、ポルノ小説というのは古い響きがある。性的興奮を与えるのが目的のツールとしては映像ものが出回っていて、文字によって想像力を掻き立てるという手間のかかるものは、一般向けの娯楽からは遠ざかりつつある。それでもそういったものは根強く残っているし、町の本屋の棚では純文学系文芸誌や詩誌をおしのけて平積みされている。
それらをこの時評で、カテゴリーにいれるかどうかも一度は検討されたらしい。だが残念ながら、目的として性的興奮を高めること以外になく、どのような側面においても文学たらんとしているとは考えにくく、したがって文芸誌としてのジャーナル性に欠けているとのことで、今のところは却下だそうだ。
とすれば、文芸誌である小説すばるにおける、セックス小説特集というものをどう捉えればよいのか。
いわゆる官能小説、ポルノ小説との明らかなノリの違いとしては、女性の著者を中心としているということである。ファッション誌an・an の組む「セックスできれいになる!」という特集が毎回当たる、というのを思い出す。
女性による性的な物語は確かに、商品になる。が、それがポルノ小説や官能小説のように男性の手に取られるには、男にとってのある快楽の腺を刺激する書き方をされている必要がある。それは多くの場合、商品化のための虚偽が含まれている。
女性によるあからさまな性の語りは、むしろ男を怯えさせる。人の眉を顰めさせるという点で、それは文学足り得る。読者は女性ということになる。同性同士で真実の姿を追うという点においても、真摯なものになり得る。
小説すばる6月号のセックス特集では、そのすべての作品が文学足ることを志向しているわけではないように見える。ここではしかし、どの作品が、ということは避けたい。作者が文学足ろうと意識しようとしまいと、一瞬の手の狂いのように、それが「文学」になってしまうことがある。また、そう「なっている」という読解を付けることは可能だろう。
その一瞬の著者の手の狂い、その一行の読者の解釈によって、作品の意味も価値も、何もかもが180度違ってくる。そのようなスリリングな読解の可能性を探して、本屋に平積みしてある官能小説雑誌を手に取ることは面白いかもしれない。定期的なレビューは、やはり難しいだろうが。
文芸誌である小説すばるのセックス小説特集を手に取るときは、私たちはセックスの細部とそこに至る事情の描写を通して、何が見えてくるのかということにしか関心はない。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■