医療小説とは何だろう。よく聞くようで、あまり聞き慣れない気もする。人の営みのすべてについて小説ジャンルが成立するものだろうか。美容師小説、マーケティングリサーチャー小説、花屋小説とか。それらはすべて単なる小説のはずだが、医療について独立のジャンルが成立すると思われるのはなぜか。
医療ドラマの視聴率が低迷しているとも聞いた。医療にまつわるドラマチックな場面というものに、人がたやすく感動しなくなったらしい。医療が進歩したこともあろうし、そこでの選択が相対的なものになっていったこともあろう。医師と患者という絶対的なヒエラルキーがなくなり、なにやら散文的な光景になっているようだ。
それでも医療は生と死に接近している。そこは文学を生み出す土壌ではある。その土壌の特異性に対して、医療小説という独立したジャンルを措定することはあり得る。
ならば生死の境を見ないものなら、たとえ医療の現場に関わるものであっても、医療小説とは呼ばれないのではないか。それは花屋の小説、マーケティングリサーチャーの小説と同様に、単なる医療従事者を主人公とした小説に過ぎない。
小説新潮6月号の医療小説特集の巻頭に置かれた海堂尊の「健康増進モデル事業」はこの意味では、医療小説に含まれるとは考えられない。
もともと海堂尊の小説は、プレーンで日常性の平板さに満ちた作文の文体で、饒舌性が緊張感を無化する方向に働く。『チーム・バチスタの栄光』といった小説が成功し、医療小説の興隆の一助になったのは、サスペンス形式であったため、否応なく生死の境を見ることになったからだと思われる。海堂尊の饒舌な作文は、サスペンスの緊張を意図的に錯乱させているように見えたのだった。
同じ号には「第一回日本医療小説大賞」(!) の発表も掲載されている。これが「日本花屋小説大賞」とか「日本マーケティングリサーチャー小説大賞」とかとは異なるのだ、と示すためにも、医療小説とは何かの本質的な定義は必要ではないか。
小説新潮の「一粒で二度おいしい」的なパフォーマンスとして、今回はスポーツ小説特集もある。こちらの方はまだ定義しやすいだろう。競技中の思考や心理を綿密に追い、勝利なり、意義ある敗北なりのゴールに達する。つまりはスポーツをモチーフとして作り上げられた言語のシミュレーション・ゲームだ。
もちろん、それはスポーツそのものではない。スポーツは筋肉で語るものであり、肉体の言語は必ずしも日常の、小説的言語に置換可能なわけではない。それは沈黙を含んでいるという点では、詩の言葉と相性がよいとも聞いた。
いずれにせよ、○○小説というジャンル立てが、2ちゃんのスレ立てと同様の軽さでなされるのは、考えなしを露呈する。
谷輪洋一
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