オール様の特集は『新年、人気作家顔見世』でござーますわ。人気作家先生のお作品がずらりと並んでいますけど、ブンガクシャ先生って、共通点があるようでないですわねぇ。人間って、自分がよく知っている業界以外は漠然と一枚岩だと思ってしまうところがございます。でもアテクシのいるサラリーマン業界だって一枚岩じゃございませんことよ。中には億単位のお金でヘッドハンティングされるお方もいらっしゃいますし、今の職を失うと再就職に苦労されるお方もいらっしゃいますわ。いわば強者と弱者がいるわけですけど、強者が弱者をいたわるってことはまずないわね。だって強者に見えても板子一枚下は地獄で、みんなギリギリのところで踏ん張ってるのよ。自営業者のブンガクシャ先生なら、なおさらのことですわ。お一人ずつ大きく事情が違うのよ。
文学金魚に掲載されている三浦俊彦先生と遠藤徹先生の対談で、遠藤先生が「一番僕がカチンと来たのは、編集者に「エンターテイメント小説は謎が残っちゃいけないんです」と言われた時ですね。それじゃあ、ぜんぜん面白い小説を書けないじゃないですか。でもエンターテイメント小説の世界では、読んだ後に何も謎が残らないというのが大事らしいです」とおっしゃっています。考えさせられてしまいますわねぇ。ちょっと露悪的な言い方になってしまいますけど、アテクシのような読者が、暇つぶしのために小説を読んでいるのは確かですわ。前にも書きましたが、マンガとかゲームでは快楽を得られない古い人種なのよ。でも「何も謎が残らない」方がいいと考えているのかと言えば、そうでもないわねぇ。
エンタメと純文学の違いって、お作品が掲載される文芸誌の違いでもあるわね。もう少し正確に言えば、各文芸誌が読者のニーズのマジョリティを取りまとめて、雑誌の編集方針を一定方向に誘導しているわけですわ。だからどの文芸誌の新人賞でデビューするかで作家様のその後の方針が決まることがおおございますの。作家様はデビューした雑誌で、多かれ少なかれその雑誌の編集方針に合うよう鍛えられるわけでございます。芥川賞を受賞なさった又吉直樹先生も、「文學界」ではなくて「オール讀物」でデビューされたら、また違った道をお歩きになったんじゃないかと思います。ただ作家様全員が、大衆小説や純文学のコードにピッタリ合うとは限らないのよねぇ。
アテクシがエンタメ小説界のスーパースターだと思うのは、浅田次郎先生や夢枕獏先生のようにきっちりエンタメ小説を書きながら、純文学的要素を持っておられる作家様ですわ。彼らは小説家としての能力がとても高いと思いますの。雑誌編集部の要請に添って軽々とエンタメ小説を書きながら、どうしても書きたいことまで書いておられます。純文学も同じね。純文学作家という自己認識があって、純文学とはなにかを考え抜いた作家様が最高なのよ。そこまでのお力がない作家様は、エンタメっぽいお作品を書き、純文学っぽいお作品をお書きになっているだけのことよ。アテクシのような読者は、そういったお作品はジャンルを問わず、「あー面白かった」で消費してしまいますわ。消費されすぐに忘れ去られてしまうかそうじゃないかは、エンタメと純文学のジャンルの違いではありませんわね。
と申しましても、エンタメにも純文学にも分類できない、そこはかとないコードからどうしても外れてしまう作家様はいらっしゃいますわ。純粋読者の分際でとても生意気なことを言うと、そういった作家様にはご自分が本当に何を書きたいのか、その確信が揺らいでいるお方がおおございますわねぇ。お作品って要するに内容で、エンタメなのか純文学なのか、どの雑誌に掲載されるかなんて読者にはなんの関係もないことよ。でも作家様の確信が揺らいでいると、現実に存在する文学界のコードに引っ張られて中途半端な作品になってしまうの。もっと確信を深めて、誰がなんと言おうと好き勝手にお書きになったらどうかしらと思ってしまいますわね。
ぎこちなかった日常は、三月もするとどうにかふつうに戻ってきた。
それは自分の努力の成果だと夏弥は感じた。といって夫に失望したというわけではない。失望というなら、自分を含めたこの世界の真実というべきものに対してのものだし、だとすれば失望ではなく理解だろう。
惣一と結婚して、安らかな場所にいると思っていた。守られてきたし、守ってきた。そう信じてきたけれど、じつのところはずっとひとりきりで荒野にいた。そのことに夏弥は気がついた。ぎょっとしたり悲しくなったりはしなかった。赤ん坊はどうしたら生まれるのか、本当のことをはじめて知ったときと似ていた。
そうだ、このことは、時期が来れば誰も知るのだと夏弥は思った。自分にもそのときがやってきたのだ。べつのことで医者が言ったように「あなたの歳では、いささか早い」のかもしれないけれど。
(『歌いたいの』井上荒野)
夏弥は三十五歳で一つ年上の惣一と結婚して八年目です。不妊治療を始めようと医者を訪れた際に、子宮に癌が見つかります。手術を受けたのが三ヶ月前で、ようやく普段通りの生活を取り戻しつつあります。ただそこには再発の不安が潜んでいます。医者は「五年間転移がなければ生き延びられる」と言ったので、病気との戦いは始まったばかりです。しかし夏弥の心は前向きに病気と闘っているとは言いがたい状態です。病院で定期検診を受け、異常がなかったことを電話で夫に報告しながら、「転移があったの。もう打つ手はないんですって」と言いたい誘惑に夏弥は駆られます。「瞬間、自分が夫を敵だと見なしていることに夏弥は気がつく。そして慌てて、その感情を打ち消す。夫は味方だ。夫だけが味方なのではなかったか。それから夏弥はさらに気づいてしまう。「死」の味方には誰もなれないことに」とあります。
「惣一と結婚して、安らかな場所にいると思っていた。守られてきたし、守ってきた。そう信じてきたけれど、じつのところはずっとひとりきりで荒野にいた」という記述は、夏弥がなにものによっても解消しがたい存在の病を抱えていることを示しています。癌はその根深い不安を明るみに出す契機に過ぎなかったのです。あるいは癌とは別に、夏弥は死に至るような存在の病を抱えている女性です。病気はそれに終止符を打つかもしれませんが、快癒すれば夏弥は生の続く限りこの病にさいなまれることになります。
夏弥が訪ねた三人の男の中で、唯一の妻帯者で四歳になる子供もいる保坂だけが、頼みを聞いてくれたというのは面白いことだと夏弥は考える。午前十一時に駅前のロータリーで会って、デパート内の中華料理店で昼食を取り、そのとき話を切り出すと、了解されてそのままラブホテルへ行くことになった。
「どうもありがとう」
コーヒーとケーキ――ケーキを頼もう、と言ったのは保坂だった――が運ばれてくると、夏弥は言った。こちらこそ、と保坂は重々しく応じた。
(同)
夏弥は学生時代に付き合った男たちを訪ね、一度だけ寝てくれと頼みます。応じてくれたのは保坂だけでした。愛しているわけでもない男と、快楽目的でもなく寝た夏弥は、もちろん病気の不安から来る自傷行為に走ったわけではありません。そんなことをしても自分は何も変わらないこと、あるいは男という存在が、本当に欲しいものを与えてくれない存在だと確認するために寝たのだと言っていいかと思います。または結婚するまで男たちとの恋愛遍歴を重ねた夏弥は、夫にとっては最初から不実な女だと言えるだろうし、男たちもまたそうだということを確認したかったのかもしれません。存在の孤独を解消してくれる他者などどこにもいないのです。
『歌いたいの』は三十枚ほどの短編小説です。主人公が寝てくれるかつてのボーイフレンドを探し、それを実行することがクライマックスになっているという点で、このお作品はエンタメ小説の要素を満たしていると思います。でもモヤモヤ感が残りますわねぇ。夏弥の、「失望というなら、自分を含めたこの世界の真実というべきものに対してのものだし、だとすれば失望ではなく理解だろう」という思いが、ある極点にまで達していませんの。つまり読者は夏弥の「理解」を共有することができないのです。
ほんとうに余計なことを書けば、このテーマでこの枚数は短すぎると思いますわ。「失望ではなく理解」と言うなら、そこに辿り着かなければならないと思うわけでございます。〝理解〟には現実の残酷さが含まれるはずです。保坂に生じた夏弥への性的な執着や、夫にEXボーイフレンドと寝たことを告白するなど、残酷な現実の続きはまだまだあると思います。少なくとも夫以外の男と寝るということが、この小説の核心的テーマではないことは確かよね。アテクシ、井上荒野先生の大ファンですの。つまり、もっと続きが読みたいのよ。
佐藤知恵子