当たり前ですが小説は物語でございます。「いーや、物語でない小説もあるっ!」とおっしゃる純文学系前衛作家の先生方もいらっしゃるでしょうけど、ほんとにそうお考えなら詩や戯曲をお書きになればいいのよ。新劇の脚本は小説をト書きにしたような物語ですが、小劇場の座付きなら好きなだけ物語の脱構築とやらをおやりになれることよ。でも本物の小説家なら、世界をぐるっと回ってまた物語に帰っていらっしゃることでしょうね。俳句の基本が五七五に季語であるように、小説の基盤は物語なのよ。
そーいえばアテクシ、又吉直樹様の『火花』をリアルタイムで読まなかったの。『火花』が掲載された時からすんごい話題でしたわね。「文學界」様、エルメス並みのブランド力だわ。ふだんなら雑誌で読むんですけど、チャンスを逃しちゃったから楽しみを後に取っておくことにしたの。そうこうしているうちに仕事が忙しくなって、気がつくと単行本が出版されておりましたわ。買って読まなきゃと思った時に、アテクシの部下で、かわいくいることで力尽きちゃってる女の子が「お局さまぁ(とは申しませんでしたけど)、これ、読んじゃったんであげますぅ」と言ってプレゼントしてくれたのね。まあああああっ、ますますかわいい子だわっ!。アテクシ、こういうおにゃの子が大好きよ。人間、けっきょくは持ってるものを全部使って生きてくのよ。社長のご子息だって政治家のご子息だってそうよ。かわいいおにゃの子が可愛さをウリにして何がいけないわけっ!って誰に怒ってるのかしら。まーお仕事で凡ミス連発されるとちょっと困っちゃいますけど。
で、アテクシの大好きなかわい子ちゃんに「どういうお話しだったの?」って聞いたら、「なんか先輩と後輩の漫才師がお笑い論してる小説でしたぁ」といふお返事でした。よくできました。さすが四大卒、花◎よっ。アテクシも読みましたけど、正直言ってちょっとガッカリだったわ。だって書いたのは漫才師さんでしょ。きっと純文学におさまりきらないお作品だと勝手に期待しちゃったのよ。でも従来通りの純文学作品でございましたわ。読み終わって「そーよねー、芥川賞受賞作に、すんごく胸躍るような面白い作品があるわけないわね」と思っちゃいましたことよ。主人公の内面小説ですけど、一般読者の心を深く抉るところまで筆が届いていないわね。有吉弘行さんが『火花』について「なんか恥ずかしいね」と感想をおっしゃっていましたけど、芸人業界を超えているとは思えませんわ。つまりかわい子ちゃんが言うように、「先輩と後輩の漫才師がお笑い論してる小説」ということになるわね。
エンタメ界には物語が溢れていますわ。テレビも映画も物語がなければにっちもさっちもいかないのよ。大ヒットするのはたいてい明るいハピーエンド作品ですけど、ディズニーばかりだとやっぱり飽きるわね。たまには暗くおどろおどろしいお作品も楽しみたくなるのよ。純粋読者の立場から言わせていただくと、そういう区分が大衆エンタメ小説と純文学小説のそこはかとない違いになるわけ。だけどどちらもいいお作品を書くのは難しいわね。でもやっぱり純文学小説の方がハードルが高いかしら。エンタメ小説にはある程度ノウハウがありますけど、純文学小説にはあんまりそういうのがありませんわ。もちろんエンタメ小説にも、純文学系と大衆文学系のお作品がありますことよ。要は比率の問題ね。
そんなに家事の時間を短縮しても、特にやることなどないのに、夫はどんどん最新型の家電製品をわたしに与える。最新機器のおかげで余った時間は黒いノートパソコンが呑み込んでいく。何度検索しても同じ情報しかでてこないのに、延々とネットサーフィンをくりかえす。ぐるぐる同じ場所しかまわっていない気がするのに止められない。手がじっとりと汗ばみ、トイレも喉の渇きも我慢して、はては瞬きすら忘れて画面を凝視しつづける。目の奥がじんじんと痛み、吐き気が込みあげる。
焦燥しきって、画面から無理やり目をひきはがすと、外は真っ暗になっている。そんな日も少なくない。同じ姿勢をとりすぎたせいで錆びたように軋む関節。熱をもった眼球。わたしのなかは、すっかり空っぽになっている。それを埋めたくて、財布を摑んで眩い商店街へ向かう。
(『カラメル』千早茜)
主人公の美佐江は専業主婦で夫は十歳年上です。夫は「美佐江が綺麗でいるためなら」と美容や洋服にお金をかけても一切とがめません。物質的にはなに不自由ない、ちょっとしたプチセレブの生活です。しかしそれでは小説にならないわけで、美佐江は不安を抱えています。確証があるわけではないですが、夫が会社の若い女性と浮気しているのではないかと疑っているのです。また美佐江は近所の商店街ではなく、わざわざデパートに出かけていって買い物をするのですが、ケーキ類だけは近所の洋菓子店で買います。すごくおいしくて気に入っているわけではなく、シュークリームなどを大量に買って、食べては吐くことを繰り返しているのです。美佐江には買い物依存症の傾向もあるわね。
とっても魅力的な設定でございますわ。ただ有閑マダムの憂鬱を描きたいのか、夫の浮気を巡る葛藤を描きたいのか、前半部分を読んだだけではよくわかりませんでした。主人公の美佐江は夫の浮気疑惑がなくても憂鬱な心を抱えた女性です。満ち足りた生活を送っていること、夫が子供を欲しがらないこと、浮気しているかもしれないことなどが憂鬱の原因ですけど、それらがすべて解決しても彼女の鬱々とした心は晴れないのではないかと思います。自分にはあるピースが決定的に欠けていると感じながら、それを手に入れても満たされないタイプの女性かもしれません。つまり美佐江の内面の不安と、夫の浮気疑惑に代表される外的な不安を一気に解消することは、なかなか難しいってことですわ。
店をでると、空を見上げた。高く青い空には飛行機雲がかかっていて、太陽が白く輝いていた。(中略)
パソコン画面の青白い光とは違う。あの光は何も残さない。あの中には幽霊が棲んでいる。わたしを蝕み、呑み込んでいく、わたしが作りだしてしまった幽霊が。(中略)
わたしの気持ちはどこにいってしまったんだろう、と思った。あの黒いノートパソコンに呑み込まれてしまったものを、白い便器に吐き出してしまったものを、もう一度探しださなくてはいけないと思った。
一人ではなく、夫と二人で。
だって、わたしたちは二人きりの夫婦なのだから。
(同)
詳細は省略しますが、ご近所の洋菓子店で働く若い女性とのちょっとしたやり取りがあって、美佐江は引用のような心境に達します。これはこれで大衆エンタメ小説定番のオチですわ。ツカミはOKだけど、意外とこういった中庸な結末になる女性作家のお作品って多いのよ。ちょっと意地悪な言い方だけど、昔の「婦人公論」的大団円ですわね。だけどこれでは読者が不安や不幸を存分に堪能できる小説とは言えないわねぇ。今回のマクラ話の延長で言えば、純文学的要素が強すぎるのよ。枚数の制約があることはよくわかりますけど、読み切り小説の場合、作家様にもテーマの割り切りが必要よね。
「いや、いいましたよね。確かに『死ね』といった。正確には『死ねえぇーーッ』だ。確かにそう聞こえたぞ。いや、それだけじゃない。その前には『ぎくッ』とも『ホッ』ともいっていた。いったい、あんたはどういうつもりで、そんな言葉を・・・・・・え!? お、おい、まさか・・・・・・おい、こら、馬鹿な真似はよせ!」(中略)
「き、貴様、わしを殺す気か。なぜだ、なぜ、わしが貴様に殺されねばならんのだ!」
「さっきいっただろ。あんたの奥さんから、頼みたい用事があるっていわれたのさ」(中略)
英明は手にしたボトルを再び高々と持ち上げると、「あんたを殺すことだあぁーーッ」
鋭く叫びながら標的目掛けて猛然と振り下ろす。瞬間、恐怖に引き攣る敬三の顔。
ボトルは敬三の額に命中し、それを握る英明の手に確かな衝撃を伝えた。
(『魔法使いと偽りのドライブ』東川篤哉)
東川先生の『魔法使いと刑事たち』シリーズの最新作ですわ。三十九歳独身美人警部・椿木綾乃を上司に持つ刑事・小山田聡介が、彼の家の家政婦で、本物の魔法使いマリィといっしょに事件を解決してゆくラノベですの。引用は犯人が殺人を犯すシーンですが、殺される方の老人に、犯人の「ぎくッ」とか「ホッ」という心の声が聞こえてしまっています。遠藤徹先生が編集者に言われた、「エンターテイメント小説は謎が残っちゃいけないんです」という言葉通りの展開ですわ。表層ライティングとでも呼べる書き方ですが、その分、読者には絵が見えてくると思います。登場人物の内面もすべて言葉で表現してしまっているのでそういう効果が得られるのね。この書き方はある程度ノウハウ化できると思います。
こういったお作品は、中途半端な純文学的大衆小説よりも読者を獲得できる可能性が高いですわね。その理由は読みやすくわかりやすいからだけではないと思いますの。登場人物たちの造形があまりにも単純でステレオタイプだから、読者が知らず知らずのうちにその内面を補ってしまうのよ。つまりキャラが際立つわけ。アニメやマンガもそうですけど、こういった単純なキャラから二次創作などが生まれてくるの。アテクシなどが言うのはおこがましいけど、それは創作行為の初歩ね。でも作家になるとかならないとかは関係なく、みんなこういったキャラの内面を心の中で育むことで大人になるのよ。このタイプのお作品は大人の作家にしか書けないってことでもあるわね。多分それは、うんと苦労して、何かをすっぱり諦め切り捨ててきた大人の書き方よ。内面描写に少しでも未練がある作家様には無理ね。これはこれで、もう後戻りできない残酷な書き方でございますわ。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■