鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第41回 渥美壺(後編)』をアップしましたぁ。一個の壺をネタに、日本の中世から現代に至る精神史を読み解いておられます。
道長の時代頃までは、死後に浄土に至り着くことが貴人から庶民に至るまでの最大関心事だった。・・・・しかし戦乱の世で武者たちが次々に無残な死を遂げてゆく平安末の人々の心に、そのような浄土幻想はもはやなかった。もし極楽浄土があるとしても、それは現世の苦悩の果てに奇跡のように現れるものだろうという意識が強まったのである。このような人々の心性に、無骨な中世陶は非常に訴えかける何かを持っていた。比喩的に言えば、極楽浄土はあるかもしれないが、それは火に責められ焼かれた果てに現れる焼き物ように無残で美しいものだろうといった意識である。・・・・そのような現実認識方法(思想)は中世末に成立したのであり、誰もが隠しておきたい自己の秘密を赤裸々に描く現代の私小説にまでその精神は流れている。・・・・中世陶の精神を理解できれば、能楽や茶の湯の精神を理解することも容易いだろう。
と鶴山さんは書いておられます。鶴山さんは常々創作には原理的思考が必要だとおっしゃっていますが、こういふ文章を読むとなるほどなぁと思ひます。思想的に一本筋が通っていれば現実の事象は拡散することなく、ある流れに沿って見えてくるところがあるやうです。物書きが僕は私はこれを持ってる、あれを持ってると自慢しても仕方がない。世の中すべからくそうですが、上には上があり下には下がある。物書きさんの悟りといふか安心立命の境地とは、物を媒介にして自己や日本人の思想や感性を的確に表現することにあるでせうね。
■ 鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第41回 渥美壺(後編)』 ■