大野ロベルトさんの連載エセー 『オルフェの鏡-翻訳と反訳のあいだ』『No.004 無言の実験室』をアップしましたぁ。大野さんは、「前世紀、知性を証拠立てたものは距離であった。距離を保てば、何を言っても構わない。それどころか、言えば言うほど、よいのである」と書いておられます。
なるほどそうだなぁ。小松剛生さんも文学金魚連載中のショートショート小説で「距離はロマンだ」と書いておられました(爆)。洋の東西を問わず、距離が未知の何事かについての想像力を掻き立ててきたのであります。インドに須弥山はなく、ヘロドトスが書いたような奇怪な人々は地上のどこにも存在していなかったのだなぁ。ほんでもそれは観念的実在として様々な優れた絵画や文学作品を生み出してきました。大野さんが書いておられるやうに、20世紀半ば頃まではそれが可能だったでせうね。
インターネットが普及し始めた頃、ある事務所のコーヒーサーバーの動画を延々と映すといふサイトがごぢゃりました。世界中の人がそれを見て、「コーヒーなくなってるよ~」とメールしてあげられる便利な(?)サイトでごぢゃった。まあここまで世界が狭くなると、そう簡単に想像力を奔放に働かせるといふわけにはいかなくなりますね。それ、間違ってるよと世界中から突っ込みを入れられそうです(爆)。
そんでも大野さんが書いておられるやうに、「どうせなら、そこに愉楽の種を見つけるべきだ。すべてが初めから明らかな世界と、破るべき錠前を与えられる世界とでは、どちらが幸福か言うまでもない。たとえその錠前が、決して破り得ないことがわかっていたとしても」といふことになるでせうね。20世紀半ば以前の世界と21世紀のとの違いは、「その錠前が、決して破り得ないことがわかってい」ながら、といふことになるでせうか。
〝愉楽〟の質が変わったといふことでせうね。創作者といふ人種は既知の中に逼塞していたのでは仕事にならない(爆)。観念的なものであれ具体的な形式であれ、常に未知を発見し創出していかなければなりません。創作者を縛る様々な錠前は、前世紀の作家たちと同じように、でも違う質のものとして、やっぱり破らなければならないわけです。
■ 大野ロベルト 連載エセー 『オルフェの鏡-翻訳と反訳のあいだ』『No.004 無言の実験室』 ■