高島秋穂さんの詩誌時評『No.008 角川短歌 2014年11月号』をアップしましたぁ。11月号は角川短歌賞の発表号で、谷川電話さんの受賞作「うみべのキャンバス」連作を取り上げておられます。バリバリの口語短歌の新人歌人さんです。
研修の会場内に「鈴木」が三、「伊藤」が四人いるのに気づく
油絵をやめてしまった指先が無邪気に虹のありかを示す
それぞれの正しさ秘めた脳みそが電車の中でゆらめいている
街角で突きつけられて飛びのいた ナイフじゃなくて聖書(バイブル)だった
灰色のほこりのかたまりつまみ上げぼくの最後の羽だと言い張る
真夜中に職務質問受けていた自分がだれか教えてもらう
好きじゃない仕事を辞めた恋人がキャンバス抱え「ただいま」と言う
足音でだれだかわかる 玄関にひかりがさして蘇生していく
二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す
間違って踏んだ絵の具のチューブから青が飛び出して海へと落ちる
「うみべのキャンバス」連作からの抜粋ですが、高島さんは、「転調は「恋人」あるいは「きみ」という存在を詠み込むことによって始まります。・・・ただ恋人は「無職のきみ」であり社会の中で拠り所がないのは詠み手と変わりません。・・・ですから末尾の「間違って踏んだ絵の具のチューブから青が飛び出して海へと落ちる」の解釈は多義的にならざるを得ません。・・・私は自分で無為な喪失感からの脱却の方法を見出しておらず作品世界が置かれた〝詩的〟な日常的散文に留まる限り外部(他者)からもたらされる救済は都合の良いフィクショナルな〝詩〟に過ぎないはずです」と書いておられます。
また高島さんは、「口語短歌が表現している思考や感情は・・・理解も共感もできます。しかし・・・詩そのものではなく詩の形式をまとった〝詩的感慨表現〟に見えてしまうのです。どうしても〝短歌でなければならない〟強い理由が口語短歌からは伝わって来ない。・・・作家の感情・思想表現のために短歌形式が利用されているように感じてしまうのです。つまり現代的表現としての口語短歌と〝短歌-文学-作品〟(詩)との間にはなにかのパーツが欠けている」とも批評しておられます。高島さんは決して口語短歌に否定的ではありませんが、口語短歌がさらなる市民権を得るためには、まだまだ乗り越えなければならないハードルがあるやうです。
■ 高島秋穂 詩誌時評 『No.008 角川短歌 2014年11月号』 ■