小原眞紀子さんの荒木経惟論『【荒木経惟論】この世の花たち(後編)』をアップしましたぁ。小原さんの荒木経惟論後編です。昨日(5月25日)から東京・六本木のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで荒木さんの個展が始まりました。文学金魚では荒木さんにインタビューさせていただき、三ヶ月に渡って断続的に荒木論を掲載してきました。面白かったなぁ。特集を組んだメディアや著者たちが、本気で〝面白いっ!〟と感じなければそれは決して読者に伝わらないと思います。不肖・石川、文学金魚の荒木論は通り一辺倒のものではなく、荒木芸術の本質に迫る質の高いものになったと思います。同時代に生きて活動している隣人である創作者の本質を、リアルタイムで把握するのはとても難しいものです。文学金魚の寄稿者の皆さんにはかなりがんばっていただきました。感謝でありまふ。
小原さんの荒木論もいい出来です。「1970年の個展「シュールセンチメンタリズム宣言2 カルメン・マリーの真相」でのB全パネルに拡大された女陰には、それを「観る客」を「男根」のサイズに縮小するというコンセプトが含まれていた。・・・自身が女陰に飲み込まれる、といった自我の矮小化のイメージは男の支配欲=性欲を萎えさせる。つまり全然、猥褻ではないということになる。・・・荒木がいっとき女陰ばかり撮っていたのは、だから皆がそれをダメだと言い、猥褻だと隠す、そのコトに興奮するから撮っていたので、子供のあまのじゃくのようなものでもある。ただ・・・女陰には多少の個性もあり表情もある。その隠された個性や表情をこそ猥褻だとするなら、確かに最も猥褻なものは荒木の言う通り、人の顔だ」と批評しておられます。
また「女たちは花と同じく無表情を許されて、躯体を曲げたり、女陰を開いたり、裸の胸を突き出したり、項垂れたりしていて、その肉体のどの部分にも特に羞恥したり意味を見い出したりはしない。・・・それが存在しているということだ。私たちは皆、いずれ存在しなくなることを前提に、存在していることを十全に認識すること。荒木のコンセプチュアル・アートのコンセプトとは、それを認識させることにつきる」と書いておられます。優れた荒木論です。じっくり読んでお楽しみください。
■ 小原眞紀子 荒木経惟論 『【荒木経惟論】この世の花たち(後編)』 ■