小原眞紀子さんの荒木経惟論『【荒木経惟論】この世の花たち(前編)』をアップしましたぁ。小原さんの荒木経惟論を今日明日の2回に分けてアップします。んで今日(5月25日)から6月20日まで、東京・六本木のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで荒木さんの個展が開催されます。詳しくは以下のURLをご参照ください。
http://www.fashion-press.net/news/17094
荒木さんには、アラーキー的な写真はどうやったら撮れるのかと聞かれて、「押しゃー撮れるのよ、写真はおしゃーしんよ」と答えたエセーがあります。小原さんはこの荒木さんの言葉を手がかりに思考を働かせ、「押しゃー写る器械を手にしているからこそ、明確な認識を持っていなくては、それこそ押して写ったものになってしまう。持つべき最初の、そして全うすべき認識とは、まさにその押しゃー写るということであって、だからこそ何を写すべきか、この世で何が価値あるものなのか、という自我を離れた価値に相違ない」と批評しておられます。
小原さんは前編で主に荒木さんの花の写真を取り上げ、「時間とともに死を内包し、死へ向かう花でなければ、〝内面〟はあり得ない。それは人もまた、同じだろう。写真に人の内面が現れるというのなら、それは花の内面が写るのと同じ原理であるはずだ。印画紙は光と影のみに感応し、それが言語化して目に映るとき、私たちはそれを内面と呼ぶ。花の背後の白バックは、「写真における内面の示され方の原理」を端的に示している」と書いておられます。
荒木さんはクライアントからの依頼で写真を撮る仕事もなさいますが、メインの仕事はプライベート写真を撮りそれを発表することです。それを可能にしているのは写真に対する揺るぎない荒木さんの思想です。それは花を撮っても人間を撮っても変わることがありません。そのような「写真における内面の示され方の原理」=思想を巡って小原さんの批評は後半に続くのでありますぅ。
■ 小原眞紀子 荒木経惟論 『【荒木経惟論】この世の花たち(前編)』 ■