『ピーター・ブルックの魔笛(A Magic Flute)』(鑑賞日:3月24日夜の部)
於 彩の国さいたま芸術劇場(2012年3月22日— 25日)
演出 ピーター・ブルック
原曲 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
翻案 ピーター・ブルック/フランク・クラウチック/マリー=エレーヌ・エティエンヌ
照明デザイナー フィリップ・ヴィアラット
ピアノ レミ・アタゼイ
歌手 (24日夜の部の配役)
タミーノ ロジェ・パデュレ
パミーナ ランカ・トゥルカノバ
夜の女王 レイラ・ベンハムザ
パパゲーナ ベツァベー・ハース
パパゲ―ノ ヴィルジル・フラネ
ザラストロ ヤン・クセラ
モノスタトス ジャン=クリストフ・ボルン
俳優 アブド・ウオロゲム、ステファン・スー・モンゴ
演出助手 ベルトラン・レスカ
衣装デザイナー エレーヌ・パタロ(協力 オリア・ピュッポ)
舞台監督 アルトゥール・フラン
照明操作 ジャン・ドリアック
衣装進行 アリス・フランソワー
字幕 ギョーム・カイヨー
The Magic FluteからA Magic Fluteへ。モーツァルト作曲・シカネーダー脚本の歌芝居に、演劇界の巨匠ピーター・ブルックは大胆な翻案・演出を施した。登場人物の削除と追加、オーケストレーションを排してピアノ一台をステージ上に配した演奏部、上演時間もおおよそ半分にまで切り詰められている。舞台を設えるのもブルック流のミニマリズムだ。開演前の舞台の床には、従来の絢爛華美な『魔笛』らしいものはなにもない。背丈よりも高い竹のポールがまばらに群生するように配置されているだけ。不定冠詞Aが示すとおり、この舞台は『魔笛』の上演可能性の一つである。そしておそらくこれまでに積み重ねられた上演の歴史上でもその極北にある。
ここでは歌や演奏の翻案の妙など音楽的な側面については言及しない。本劇評が注目するのはブルックの演劇的演出と、それが<日本の>劇場へ及ぼした効果だ。<日本の>と限定するのは、本公演がフランス語の台詞、ドイツ語の歌で構成された二カ国語の外国語劇であり、日本公演ではほぼ全ての言葉のやりとりにおいて字幕が必須となるためである。フランスのブッフ・デュ・ノール劇場で初演したときとは、明らかに違った効果を引き出したに違いない。筆者が鑑賞した夜、劇場は満席だったが、フランス語やドイツ語に堪能な観客ばかりが詰めかけていた訳ではない。外国での上演が予想外の反応を呼び起こすことについて、ブルック自身も十分に意識的なはずである。
字幕は、舞台上のフィクションと観客席の実存の世界を分け隔てる境界にある窓のようなものだ。今回でいえば、舞台の上部に取り付けられたディスプレイ画面が、日本人観客にとっての覗き窓となる。鑑賞の間、我々の視線は絶えず演技者と字幕を行き来し、耳では外部から聴こえるフランス語やドイツ語や歌の響きを聴きながら、文字を読む<内側の声>にも耳を傾けなければならない。そのような往復運動によって、舞台上に表現されているものと文字情報が伝えるものとの関係を絶えず確かめることで、奥の劇世界の光景が鑑賞者の視覚野に投影される。我々は字幕を透かして劇世界を観ているわけだ。
『魔笛』の物語は、王子のタミーノが蛇に襲われたところを、鳥刺しのパパゲーノに助けられ、夜の女王の一人娘であるパミーナが連れ去られたことを知るところから始まる。ブルックの翻案は、この冒頭のシーンから夜の女王の侍女たちを削除し、蛇や侍女の役割を「俳優」という新たに追加したキャラクターに託す。この「俳優」とは、タミーノやパパゲーノを演じ歌う歌手とは一線を画した存在だ。黒子のようなものと言えば想像しやすいかもしれないが、「俳優」はタミーノ、パパゲーノと言葉を交わし、触れ合い、しかし、ふいに舞台装置として劇世界から姿を隠したりもする、トリックスターである。観客はそのつど「俳優」を想像の劇世界に登場させたり、また除外したりしなければならない。
パミーナ幽閉の知らせ、そして彼女を救出してほしいという夜の女王の願いは、この「俳優」によってもたらされる。タミーノはパミーナの肖像を見て恋に落ち(このときパミーナも一度舞台に登場し、観客に姿を見せる)、救出を決意する。パパゲーノもいやいやながら救出を手伝うことになり、タミーノには魔法の笛、パパゲーノには魔法の鈴が手渡される。
ここでタミーノとパパゲーノの二人の救出劇は二手に分かれ、両者のプロットは平行してそれぞれの目的へと進むことになる。パミーナは神官ザラストロの神殿に幽閉されていた。奴隷頭のモノスタトスに陵辱されそうになるが、地下通路から潜入してきたパパゲーノに助けられる。潜入者に驚いた奴隷たちが逃げ出した隙に、パパゲーノはパミーナを連れて神殿を脱出しようとする。一方のタミーノは、神殿の門前で手下の神官らと問答し、ザラストロは夜の女王の言うような悪人ではないことを知る。地下通路と神殿の門は、「俳優」たちが自在に操る竹のポールで象徴的に表現される。
その後、タミーノは神殿を脱出した二人と再会するが、そこへ登場したザラストロから沈黙の試練を与えられる。試練に打ち勝つ事が出来れば、タミーノのパミーナへの愛は認められ、パパゲーノも若くて可愛い伴侶を得られるという。
タミーノはかたくなに沈黙を守り抜く。しかし、パミーナは突然口をきかなくなったタミーノに絶望し、彼の前から去ろうとする。そこでザラストロは、タミーノとパミーナの二人に、新たに火と水の試練を課す。魔法の笛の導きによって試練を乗り越えた二人は、ザラストロに愛の祝福を受ける。夜の女王がモノスタトスと結託して娘の奪還に攻め込んでくるが、ザラストロには敵わず、こうして二人の恋は晴れて成就する。
おしゃべりのパパゲーノの方は、とうてい沈黙を守ることなどできず、そうそうに試練にやぶれてしまう。そこへ黒いローブの老女が登場し、パパゲーノと無理矢理一緒になろうと追い回す。それが伴侶のパパゲーナだと知ったパパゲーノは、絶望し首を吊ろうとするが、パパゲーナが再び追い回しにくる。「俳優」たちの助言によって魔法の鈴を鳴らすと、老女はローブを脱ぎ捨て、若くて可愛い娘に変身する。こうしてパパゲーノとパパゲーナも素敵な恋のアリアを歌い交わしてハッピーエンドを迎える。
物語上の筋の分岐は、演劇表現の上でも重要な対照関係にある。その最初の示唆となるのは、タミーノが神殿の門前に登場する場面だ。ここでタミーノは観客席の入り口にあらわれ、席の間の通路を抜けて舞台へ登壇する。ありふれた演出だが、しかしタミーノはこれほどまでに観客に近づきながら、決して観客に接触しない。「ここは神様の世界か」と、タミーノは<フランス語で>つぶやく。観客は、傍らを抜けていくタミーノを見ながらフランス語のつぶやきを聞きとり、すぐさま視線を舞台の上部の字幕に移されなければならない。最前列の観客ならば、字幕を読むためにタミーノの身体を一度視界からはずす必要があっただろう。タミーノは観客席に神の世界を幻視しているが、我々観客もまたタミーノ役の歌手の演技する身体から目を逸らして、字幕の文字情報の上にタミーノの在り様を幻視しているのだ。
パパゲーノのプロットの演劇表現を決定づけるのは、即興の導入だ。彼は可愛い嫁が欲しいあまり、舞台上から観客席の若い女性客に<日本語で>声をかける。「ケッコンシテクダサイ」と片言のいかにも覚えたての<不自然な>日本語は、しかしこの劇を通して唯一字幕を介さない、登場人物と実際の観客のナマのコミュニケーションであり、字幕に表示された台本の劇世界から逸脱した観客接触といえる。この即興の一瞬間、観客へのプロポーズという語りかけは、観客に首を振らせたり戸惑わせたりという反応を起こすことで、ダイレクトに劇世界に関係づけて、観客を演劇行為に参加させる。
ピーター・ブルック著『なにもない空間』では、演劇の理想とその最大の関心事は、観客への直接的な接触にあり、演劇は観客によって完成されると述べられている。
「では観客とは何か。フランス語には、見ている人、公衆、見物人を意味する単語が色々あるが、その中に他とは質の違う、ひときわ目立つ単語がある。<アシスタンス>という言葉だ。」(『なにもない空間』高橋康成・喜志哲雄訳 昌文社 p.205)
アシスタンスとは、文字通り「援助」であり、観客は舞台を享受するのではなく援助しているのだということに目を向けなくてはならないと、強調する。それは観客が演劇行為へ参加すること、俳優によって演劇行為の中に観客を巻き込むことであり、<見える>かどうかではなく、演劇を自覚したうえで<見る><見せる>の錯視的関係の中に俳優と観客を置くということだ。
観客接触に失敗するタミーノのプロットには、ふんだんに手品の技法が盛り込まれている。魔法の笛の導きで試練を乗り越えるとき、「俳優たち」の手には炎がともり、タミーノの掌から魔法の笛が浮き上がる。舞台上の表現行為は一見魔法のように<見える>のだから、これは一面では幻視の装置といえる。しかし、我々観客はそれがよくある手品である事を容易に看破してしまうだろう。手品であると見破れば<錯=見かけと見るはずのものの差異>の意識が働くが、手品の根拠は字幕の文字情報の中にあるため、観客は魔法からも手品からも目を逸らさなければならない。タミーノのプロットにおいて、舞台上の実際の表現行為が劇世界とダイレクトに結びつくことはないのだ。常に日本語字幕が介入し、観客の視線を奪ってしまうのだから。劇世界がタミーノ役の歌手の身体を離れ、フランス語やドイツ語の音声を離れ、むしろ読みものとしてしか成立しない瞬間(最前列の観客においてもっとも顕著な瞬間)には、<見る>ものとしての観劇行為はもっとも迂遠なプロセスを辿り、<錯=差異>は極大化される。これがタミーノにおける表現行為の極点といえるだろう。
しかしパパゲーノは即興の瞬間のうちに、演技するナマの身体を獲得することができる。観客との接触を果たし、観客の視覚と聴覚を身体表現のうえに一致させるのである。この瞬間には、パパゲ―ノ役の歌手と劇世界のパパゲ―ノの<錯=差異>は限りなく解消され、字幕を通さない観劇のプロセスは劇世界にもっとも直接的に通じることになる。タミーノとパパゲーノの観客接触の成否は『ピーター・ブルックの魔笛』における錯視的関係の両極点なのである。
この舞台の<錯=差異>の意識が、常に「俳優」の存在によって揺さぶられていることは、先にも少し触れた。「俳優」たちは、他の登場人物よりもいっそう目立つ白い衣装を身につけ、なにか仕事があればみえる(べき)姿/みえざる(べき)姿で働き、仕事がないときには舞台上にありながら、少し醒めた態度で登場人物の表現行為を見つめている。ブルックは、この「俳優」にドレッドヘアーの黒人俳優を配役し、他の登場人物は白人で固めている。差異を際立たせることで、より観客の目につくようにし、錯視を働かせようとする意図が伺える。ミニマルに抽象化された舞台装置も<錯>の意識のトリガーだ。
舞台上に常に発見される<錯=差異>の意識と、プロット間でその程度を変化させる演劇行為との錯視的関係と、字幕から逆照射される幻視の間で、それぞれを照らし合わせて劇世界を同定する観劇を、ブルックは三か国語が入り乱れる『魔笛』に導入したのである。世界のどの国で公演するにしても字幕必須の舞台だ。二カ国語構成ならびに現地母語の即興とは、世界各地での公演に備えたブルックの確信犯的試みだったのだろう。そして、その最大効果を期待できる来訪地の一つが日本であったことは疑いない。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■