鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第35回 ロベール・クートラス賛(後編)』をアップしましたぁ。ロベール・クートラス論後編です。クートラスには彼がカルト(カルタ)と名付けた作品が6000点近くあるそうです。夕方街でボール紙を拾ってきて、それをカルタの大きさに切って油絵の具などで描いた作品です。
鶴山さんは「カルトが恐ろしいほど魅力的なのは、やはり驚異である。ただクートラスのカルトを見た画商は、「君がピカソになった日にはね(これらの作品も売れるだろう)」と言ったが、美術界の常識はその通りである。・・・期せずして、ということになるだろうが、クートラスはピカソとは違う形で美術界の常識を覆した・・・またクートラスが長生きしていれば、カルトの数はさらに増えただろう。それは根源的なイマージュは一つであるはずなのに、その現実世界での現象は多様であることを示している」と書いておられます。その通りだなぁ。
鶴山さんはクートラス論の前編で、「展示会場で、僕はクートラスのアトリエにいた。まだ絵の具の匂いが漂い、雑多に積み上げられた画材やガラクタが見えて来るようだった」と書いておられます。その理由を「クートラスの良き理解者が日本人の岸氏であったことで、僕らはまずクートラスの最も内面的な作品群に接する幸運に恵まれた。クートラスの評価が高まれば高まるほど、今後開かれる展覧会の内容は変わってゆくはずである。・・・良く手入れされた日当たりの良い墓地のように清潔で快適な美術館に展示されるようになる。彼のアトリエの中にいるような雰囲気を感じ取れる展覧会は、もうそれほど多くないかもしれない」と書いておられます。
美術館が美術作品の墓場であるという意味のことを、鶴山さんは何度か書いておられます。それはその通りで、制作中の画家のアトリエには危険な雰囲気が漂っているはずです。耳を切った自画像を描いているゴッホのアトリエには、できれば入りたくないでせう(爆)。クートラスのアトリエもそうだったろうなぁ。そういったことを感じ取れるのも、美術批評家の能力だと思います。
■ 鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第35回 ロベール・クートラス賛(後編)』 ■