一冊を二つに分けるのが好きな雑誌らしい。前号は尾崎豊特集と本編と二つに分け、特集の方は裏表紙からめくる造りだったようだが。縦書きと横書きの都合もあったと思うが、特集と本編の内容があまりに違うというのもある。とすれば、なんでシャム双生児のごとくドッキングしたのか?
それで今号も、二冊の雑誌をドッキングしたものだ。本誌の前半部分は「Story Seller」という別誌なのだという。いっぺんに二冊分読めるというお得感をアピールしているのは、もちろん何かの冗談に違いあるまい。抱き合わせで買わされている、とも言える。どうしてか、ツカを出す ( 厚くする ) 必要があるのだろう。他誌とのさや当てか、あるいはどうせ売れ部数が低く安定しているなら、単価を上げる方がよく、それにはページ数を増やすしかあるまい。
「Story Seller」のコンセプトとして、「前から、短編でも長編でもない小説を読んでみたかった。一冊の本にするには短すぎ、短編と呼ぶには長すぎる。そういった物語は案外沢山あるのではないか。」とあるが、もちろんそんな物語はたくさんあって、「中編」などとしてよく雑誌に出ている。小説新潮をわざわざ購読するほどの読者が、それを目にしたこともないとは思えない。「長編の分量にすると冗長になってしまうが、短編で語るには余るお話。それは、短時間で一気に読めるうえに、充分な満足感を得ることができる、と言い換えてもいい」といった編集部のコピーは本気とは思えず、それこそ冗長な埋め草だろう。
字だけが詰まった無駄なものを読まされるのは、読者にとってはお得ではなく、むしろ時間を損することになる。そういった意識が欠けた雑誌には、やはり狙いのわからない、あってもなくてもいい記事が増えることになるのは必然だ。
向田邦子の原作を烏兎沼佳代が構成した「続・寺内貫太郎一家」は」前半のみ遺された小説を書き継ぐ」ということだが、現在から見るかぎり、まだ中途半端な過去に過ぎない「昭和」をどう捉えているのか。時代性を総括することなく、ただの文体模写で昭和をなぞり、向田の代わりに続きを書くだけなら、意味のないことだ。
もとより埋め草エッセイのつもりかもしれないが、高山なおみという料理人の書くもの、というより書かせること自体がよくわからないと、それこそ前々から思っていた。文字通りただの「今日もいち日、ぶじ日記」を読まされるほど、読者は暇ではなかろう。
同じ埋め草エッセイでも、より有害かもしれないのは、阿刀田 高の「源氏物語を知っていますか」というものだろう。源氏物語のストーリーの合間に凡庸な現代人の茶々を入れたものに過ぎず、紙資源の無駄使いである。それが「知っていますか」とは、どういう偉いお方なのだろうか。「知っている」人には片腹痛く、「知っていない」人は源氏物語を手に取る気を失う可能性がある。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■