「作家&言葉のプロに訊く【辞書】の読み方・遊び方」なる大特集が繰り広げられている。この特集トップのドカーンとぶち抜きカラー4ページは、三浦しをん『舟を編む』のインタヴュー記事だ。昨年9月の初版発行にもかかわらず紀伊国屋書店員が選ぶ「キノベス!2012」で年間1位に選ばれるなど、発売当初から高い支持を得ていた本作だが、2012年度の「本屋大賞」に決まる前の記事だから、タイミングドンピシャな企画だ。
作品は、ある出版社の『だいとかい大渡海』なる辞書の編集部を舞台に、完成までに奔走する人々の姿を描いた群像劇である。
三浦女史は三省堂の辞書編集者の言葉を引用して、「辞書を作る人たちは言葉が湧き出る美しい泉を守っているコロボックル」であり「人とおしゃべりするのは得意ではないので、人間が近づくとささって隠れてしまう」という。なんとファンタジーの世界であろう。辞書を舟に例えるのであれば、一つ一つの言葉は舟を守り嵐を鎮める「セントエルモの灯」だろうか。そしてその灯を絶やさずに点し続けるべく、人目に触れぬように日々の仕事に励む妖精たち…。元・書店員という肩書きをも持つ三浦女史はまた、記者会見で「仲間に選ばれたようでうれしい」なる主旨の発言をしていた。「〈言葉を愛する人〉による〈言葉を愛する人〉たちを描いた小説が、〈言葉を愛する〉仲間たちによって栄誉を与えられた」というところか。もっともその〈言葉〉も、それへの〈愛〉も、そこはかとない雰囲気であって、これといった実体はないが。
むしろ『新明解国語辞典』は「ブンガク」作品かどうか、という問いかけの方が実体を持ち得るだろう。たとえば「愛」という言葉を引いてみると、
個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのもの全ての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間に本来備わっているととらえられる心情。「親子の―〔=子が親を慕い、親が子を事故の分身として慈しむ自然の気持ち〕(以下略)
とある。金田一先生はこれを『旺文社国語辞典』の記述とあわせて「情緒的すぎるきらいがある」とバッサリなわけだが、個人的には「性善説的見解に基づく倫理的な意味での【愛】」を語る上では、まさに見本となるような「ブンガク」だと思う。まぁこれはボク自身が実は根っからの新明解ファンであるからこそ感じることなわけなのだが。あぁ、「新・ラジオの女王」こと小島慶子女史も新明解ファンだということがわかり、彼女の高感度が上がったことはココだけの秘密。
目を引いたのは道尾秀介を招いての「言葉で遊ぼう!」。かつてフジテレビ深夜で放送していた『たほいや』なる辞書遊びと、伊集院光も愛好しラジオ(TBSラジオ『火曜JUNK 深夜の馬鹿力』)で紹介していた『ワードバスケット』の実演披露。特に『ワードバスケット』はボクも高校か大学のころ(大喜利遊びの延長として)数度プレーしたことがあり、懐かしさを喚起されながら楽しく読んだ。ただ遊びっぷりに「徹底」感がなく、ちょっとしたページ埋めなり編集部内でのお遊び紹介となったきらいはあり。どうせなら大高洋夫、松尾貴史、山田五郎に周富徳(!)あたりの旧『たほいや』常連参加者を招待し、「大復活! 誌上『たほいや』決戦!」なんて盛り上げれば良かったのになぁ。
ちなみに同企画の中で、小池昌代に辞書で適当に引いた三語を利用した小説創作を依頼していたが、これは不発。いわゆる落語家が寄席でやる「三大噺」のようなもの。企画意図は面白いが肝心の創作内容が「うーん」といった感じ。「とりあえず三つのテーマをぶちこみましたよ」感がアリアリと感じられ、またストーリーもはてな。これまたさらに雰囲気だけで、フワフワとしたウスーいモヤモヤとした…何というか、何も心に残らないのである。そこはやはりプロの落語家にお願いすべきではなかったろうか。
文句をたれたいのは、永江朗の「奥深くて面白い辞書の世界」という辞書版ブックガイド。フローベールの『紋切り型辞典』がアンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』の前に出版されていたとか触れているが、その翻案者である筒井康隆のHP(『偽文士日録』)で無料公開されている『枕詞逆引辞典』など、紹介するべき「辞典」はもっと数多くあるのではなかろうか。ビジネス用語辞典なんて、誰でも知ってるんだから。
新連載は森村誠一の3.11を題材にした魂の救済モノ。アラーキーの写真は格好良かったが、今回のテーマと想定読者層(例えるなら、初めて文芸誌を手にとってみたような、黒髪ロングの文学少女)には古すぎる顔だろう。事実文体も導入も毎度おなじみのモリムラ先生なのであり、忘れないでネの「生存の証明」といった趣。第一話を読むだけで最終回までの展開が読めてしまうというのもどうなのか。モリムラ先生に初期の綾辻行人ばりの大逆転は期待できない気がするのだが。
高階謙
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■