畠中恵の特集である。この作家の作品を読んだことがなかったが、こういうふうに知ることができるという意味で、文芸誌時評をするのも悪くないと思えた。
時代小説には、何となく馴染めなかった。最近、歴史ガールといった女性間のブームもあるようだが、歴史を知れば知るほど、あのご都合主義に素朴な「昔の人間」が出てくる時代小説に鼻白む瞬間があるのではないか。
田舎の人々が都会人より純朴ということはない。彼らは彼らの地域における利害得失により、緻密な儀礼や人間関係を構築しているのであって、それがムダに厚い人情に映るのは、単に事情を知らない都会人の目にのみだ。
空間軸を時間軸に置き換えれば、だから昔の人々が現代の人々よりも義理人情に厚いということはない。生活が苦しく保証のないぶん、むしろ取り引きも駆け引きも激しかったことだろう。
ご都合主義の物語を読まされるのも嫌だが、そうかといってリアルに古文書を翻訳したようなものも敬遠したい。なかなか難しいものだ。結局、時代小説は国取りの経緯を出世競争になぞらえるオヤジ読みしか術がないのか、とも思える。
畠中恵という人の時代小説は、こういう時代小説にありがちな「陥穽」をうまく回避しているようだ。「家族中でファン」とあったが、特集を見るかぎりはあり得るようだ。
「畠中恵すごろく」と称し、「つくもがみ」という古物に憑く神霊についてのシリーズを主に紹介している。その新作として「ひなどうぐ」が掲載されているが、女性としては、つい食指が動く。
一般に「もの」を媒介として過去を呼び寄せるというのは、よいやり方だと思う。「もの」は決定的に古び、そして決定的に残るからだ。
そして「もの」に対する美意識もまた、倫理観や人情のありようと同様、時代とともに移ろう。しかしながら「可愛らしい」という感覚は不変である気がする。意識が変わるのは社会が変わるからで、それに対して女子供のありようはさほどは変わらない。子供らをキャラクターとして動かしているかぎり、そこにまつわる感情は、大人同士の「人情」ほどにご都合主義に描かれているようには映らない。
畠中恵はたまたま女性であったために、これらの設定を偶然に思いついたのではないように思う。作品の字面を眺めても、時代小説で一番嫌なところ――「」で括られた、妙に現代ふうの会話――も、さほど気にならない。細心の手つきで、落語の語り口を持ち込んでいるためだろう。私たちの感じる時代小説への違和感を同じくし、解消しようとする作家が一人でもいるのは嬉しいことだ。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■