ラモーナ・ツァラヌさんの『青い目で観る日本伝統芸能』『No.019 影と遊ぶ女――木ノ下歌舞伎『黒塚』』をアップしましたぁ。木ノ下歌舞伎さんの『黒塚』を取り上げておられます。『黒塚』は能や歌舞伎でおなじみですが、陸奥の安達原にある黒塚に住む鬼女のお話です。能の方がプリミティブな形態ですが、現世に妄執を残して成仏できない人間の魂が鬼(幽霊)となり、それを仏教の教えでなだめるといふストーリーです。
んでラモーナさんもエセーなどで時々書いておられますが、能の場合、仏教の教えによる成仏といふ目出度い結論は、どーも方便のやうなところがあります。成仏は必要なのですが、観客は実は鬼や幽霊が見たひ(爆)。実際、お能では鬼や幽霊が主役で、とにかく恨めしいとかき口説く。で、それが解決できるかといふと、過去のことなので誰にも絶対に解決不能なわけです。最後にギリシャ悲劇の神様のやうに伝家の宝刀の仏教を持ち出して、成仏してちょーだい、はい、成仏しましたね、といふ終わり方になるんですが、またぞろ鬼や幽霊は現れる。能は室町時代から同じ演目を再演し続けていますが、それ自体、鬼や幽霊は絶対成仏できないことを示しているやうなところがありまふ(爆)。
ですから鬼や幽霊の解釈が能の勘所になるわけで、木ノ下歌舞伎さんの『黒塚』でも鬼女・岩手に新しい解釈が付け加えられています。ラモーナさんは「木ノ下歌舞伎のアプローチは、特に主人公の人間像を作り上げることに力を注いでいる。・・・薪を拾いに一人山に登った彼女は、月明かりの下で少し休みながら一輪の花を眺め、自分の人生を振り返る。・・・その光の中で一瞬人間に戻った岩手は、希望を抱き、喜び踊り始める。自分の影も一緒に躍っていることに気付き、孤独からも解放された岩手は純粋に笑うのだ」と書いておられます。影と踊る鬼女を舞台化することで、絶望の中にありながら、絶望しきれない彼女の孤独を描いているわけです。
ラモーナさんが書いておられるやうに、「木ノ下歌舞伎の作品は、伝統芸能に親しんでいる人と、それに親しむ機会があまりない人たちの間の掛け橋のような存在」です。古典には民族や文化の本質が必ず表現されています。その本質を把握すれば、それを現代的に解釈し直しても内実が損なわれることはない。歌舞伎座で上演される舞台だけが歌舞伎ではないわけです。
■ ラモーナ・ツァラヌ 『青い目で観る日本伝統芸能』『『No.019 影と遊ぶ女――木ノ下歌舞伎『黒塚』』 ■