【公演情報】
公演名 説教節の主題による見世物オペラ 身毒丸
会場 世田谷パブリックシアター
公演期間 2015年1月29日~2月1日
主催 演劇実験室◎万有引力
作 寺山修司
演出・音楽 J.A. シーザー
美術・衣装・メイク 小竹信節
共同演出・構成 髙田恵篤
出演
柳田國男 髙田恵篤
間引き女[薊]、幻の母 伊野尾理枝
せんさく 小林桂太
語り手[仏の座] 村田弘美
間引き女[竜胆]、幻の母 木下瑞穂
生徒二[ゴム消し] 飛永聖
語り手[鬼灯] 森ようこ
しんとく 高橋優太
父 井内俊一
生徒一[一番星]、黒衣[曼荼羅] 森祐介
生徒三[ニコチン]、黒衣[蓮糸] 曽田明宏
二面相一寸法師、福助、幻の母 前田文香
いざりの下足番、黒衣[劫] 渡部剛己
露払い、幻の母 服部愛弓
からくり人形[沓台]、幻の母 杉村誠子
太刀持ち、童女、幻の母 米塚杏子
肺病女、幻の母 石川詩織
呼び込み男、黒衣[甚] 今村博
からくり人形[立傘] 金原並央
蛇娘、幻の母 波樹みほ
からくり人形[台傘] 織上真衣
黒衣[竟] 唐沢宏史
手毬女学生、蛇娘、幻の母 若松真夢
松葉杖の団長、黒衣[瞋] 杏奈玲治
二頭双生児、女学生、幻の母 伊藤彩香
二頭双生児、女学生、幻の母 田中りか
犬女、幻の母 波田野宇乃
青い輪廻坊、肉男、黒衣[如] 田中真之
女力士 内田葩
撫子 蜂谷眞未
演奏
ギター a_kira ベース 本郷拓馬 ピアノ ARUHI
ドラム 田中まさよし オルガン 谷本健治 チューバ 菱沼尚生
フルート 山田弥生 バイオリン 多治見智高 バイオリン 皆川真里奈
琵琶・説教節 川嶋信子 箏 本間貴士
ソプラノ・ソロ 竹林加寿子 ソプラノ 山中一美 ソプラノ 高瀬結花子
メゾソプラノ 山口克枝 テノール・ソロ 斎木智弥 バス 高橋雄一郎
ボーイソプラノ 今村カヤ
指揮・パーカッション・和太鼓 J.A. シーザー
世田谷パブリックシアターでの演劇実験室・万有引力による『身毒丸』公演は、早い段階からチケット完売となった。筆者は運よく当日券を手にして念願の観劇ができた。中世の説話に基づく説教節を題材に、寺山修司が戯曲化した作品である。寺山主宰の演劇実験室・天井桟敷によって1978年に初めて上演されて以来、何度も上演され、海外でも大きな反響を呼んだ。初演では共同演出と舞台音楽を担当したJ. A. シーザーが、今回は演出を手がけた。
『身毒丸』の題材になったのは俊徳丸伝説だが、俊徳丸は継母の呪いによって失明し、四天王寺の観音に祈願することで救われる。この伝説は世阿弥の長男・元雅が作成した能〈弱法師(よろぼし)〉の題材になり、説教節の『しんとく丸』や人形浄瑠璃、それに歌舞伎の演目にもなった。「しんとく丸」に最初に「身毒丸」という字を宛てたのは折口信夫であり、彼が『身毒丸』のタイトルで小説を書いている。
寺山版『身毒丸』では、「母を売る店」で買い求められた義理の母撫子と、その義理の息子しんとくとの関係が物語の中心となる。しんとくは撫子を恐れ、「本当の母」に会いたい気持ちでいっぱいである。一方撫子は、自分の息子せんさくを家の後継ぎにするためにしんとくを失明させ、家から追い出す。やがてしんとくは義理の弟に復讐するために帰ってくる。その時になって、実は撫子はしんとくに愛されたかったのであり、その禁断の愛がすべての不幸の原因だったことが判明する。
夢と現実が交じり合い、異形で怪奇なものが現実を浸食することで独自の雰囲気を生み出す寺山演劇の特徴は、『身毒丸』のような作品によく表れている。寺山は詩的な方法で人間の無意識に潜んでいる夢やイメージを取り出し露わにする。それらの心像はすべて人間の意識の底にあるモノなので、親しみが湧く。しかし同時に異様なモノでもあるため、人を不安にさせ、人間の中にある変化を呼び起こす力を持っている。
寺山は『身毒丸』の解説で、「日本の伝統芸能のなかの根強い〈家〉本思想ともいうべき、家族の三角形の因果構造を、解体する試みの一つだった」と書いている。つまりこの作品の狙いは一般的な「理想の家」という、パーターン化したイメージを破ることにある。人間の生が、既成の形式にすっぽりと当てはまってしまうことの方が異様なのである。
もちろん「理想の家」への反発は、寺山が育った家が「普通」ではなかったことにも影響されている。寺山は、父親が戦死してから九州へ働きに行った母親と離れ離れになり、親戚に育てられた。彼は普通の家族のパターンから外れた者の気持ちをよく知っていたのである。
『身毒丸』には学校での生徒たちの遊びの場面がある。「学校へ行くと先生が、親のいない者、手を上げろ」「四十九人のその中で」「坊や一人が手をあげた」というセリフが交わされる。普通ではない環境で育った子が差別を受ける現実を暗示するこの場面は、とても不気味で切実であり、『身毒丸』の制作意図に直接的につながっている。
日本文化における、既成の秩序や制度に対する抵抗は遠い昔からあった。今も人気の妖怪文化はその一つである。「妖怪」という概念は近代に入ってから使われ始めたのだが、怪奇的なものに関する興味は古い。特に江戸時代の読み本や絵に見える異形のものたちは、童話に出てくる悪役の怪物ではない。杓子定規な制度を嘲笑い、それを転覆させるような要素を含んでいる。あまりにも制度や社会的役割が押しつけがましくなれば、それをひっくり返そうとする異形のものたちが必ず出てくるのである。
寺山演劇に見える見世物小屋が、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』と似通っている部分があるのは偶然ではない。『身毒丸』に、鍵となる人物として何度も柳田國男が登場するのも偶然ではないだろう。寺山演劇における既成概念転覆の仕掛けは、古い昔から日本文化に潜んでいる抵抗的な衝動に裏付けられているのである。現代を含めていつの時代でも、物語、歌、絵や芸能などの芸術作品には、抵抗や転覆を象徴する異形のモノたちが、陰影の世界の住人たちとして勢いよく生きている。
『身毒丸』の現代性は衰えない質を持っているわけで、この度の再演は非常に喜ばしいことだった。出演者の人数や会場の大きさから言って、演劇実験室・万有引力による『身毒丸』は、37年前の初演よりスケールの大きい公演になっていたようだ。ロックオペラとして構成されたことで、音楽が強い存在感を発揮していて印象的だった。クラシック音楽とロックの組み合わせによって作られた壮大なサウンドスケープに、琵琶と箏の音がうまく活かされ、日本の現代と伝統文化の切っても切れない関係が浮き彫りになっていた。
ただこの公演に集った観客たちには多少の異和感を覚えた。満席となったホールの観客たちは、かつての天井桟敷の『身毒丸』にできるだけ近い雰囲気の公演を見たいという期待を抱いていたようなのだ。しかし『身毒丸』のような作品が懐かしさの目で鑑賞されることは、押し付けられた行動パターンに対する抵抗力の衰弱を示すのではないだろうか。
『身毒丸』は現代を生きる人々の抵抗力、反発力を呼び覚ますためにに作られたのであり、過去の名作として鑑賞されるのは決して望ましいことではない。『身毒丸』の風景は現代と伝統文化が一体化ものだが、この作品本来の力を引き出すためには、舞台美術や上演のコンセプトの上でも「現代」の方をより強く主張する必要があるのかもしれない。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■