相変わらず、よくわからない。わからないならレビューしなければいいのだが。文学金魚のレビューは、必ずしも毎号しなくてはならないものでもないし。レビューが集まっている雑誌は、そのぶん評価されていることにもなるらしい。
やっぱり気になるのは、単に自分が三田の卒業生だからだろう。編集部にも、ちろりと顔を出したことがあり( というのを最近になって思い出した )、編集者も読者も周辺環境も、みな見知っている気がする。
無論それは昔の話だが、それでも根本的に人種やカルチャーは変わらないはずだ。一般の出版社以上に、変わりようがないだろう。慶応義塾という重しが載ってるからには。
が、そうであるはずが、わからなくなってる。前回も書いた通り、雑誌そのものはメリハリが利いて、昔よりも商業文芸誌っぽくなっている。ホームページなんかもできちゃってる。その商業化がわからないわけではない。慶応はもともと商人の学校なのだ。
けれども慶応の理念ってのは、経済的な独立が自由の気風を守る、ってとこにあったんじゃないか。金儲けは自主独立の誇りを守るためのもので、卑屈になったり地位や立場にしがみついたりするのは、慶応の最も嫌うことだった、とOB としては理解しているが。
もちろん、今の三田文学が組織自体として儲けようとしているわけはない。ただ、ホームページではご丁寧に、同人誌評に取り上げられた作品と作者名がアップされていて「三田文学が選んだ優秀作は、文學界に転載されます」とある。自分たちで選んだ新人賞を他の権威に紹介しますよって、誇らしげに言うことだろうか。口利き業に身を落としたら、商人としてもかなり下の部類…。
今号は作品特集ということで、短編小説が並んでいる。編集後記には「書きたいものを、勝手に、遠慮せずに」とあったが、自由闊達な精神も、そこから生まれる鋭い批評意識も、みごとに片鱗すら窺えない。編集後記の続き、「もちろん読者への歩み寄りは必要で」というところがミソか。
三田文学の想定する「読者」は、すでにはっきりと顔の見える集団と化していて、我々一般読者とは価値観も何も異なっている、ということだろう。しかし、もしそれが同人誌カルチャーをオルグすることで生まれた集団であるなら、全国の同人誌にとっても危機的なことではないのか。
あるいは、昔の卒業生が憂えて口を挟む余地などないのは、すでに雑誌だけの話ではないのかもしれない。慶応本体がそもそも、三田の誇りも自主独立の精神も保てない状況にあるのか。リーマンショックで慶応義塾が空けた400億円ともいわれる大穴の、万札一枚ずつには諭吉先生が印刷されているはずなのだが。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■