絵に描いたような立派な不定期刊である。今回、一年半ぶりの刊行ということで、前に出たとき自分は何をしてたろうと考えるぐらいのスパンだ。早稲田の学生だったら、在学中に何回刊行されたか、というぐらいだ。若ければ若いほど、一年は長い。
ならば逆に、常に刊行が記憶に残るイベントと同期する、としてもよい。そのつもりかどうかはわからないが、特集は「震災に」。震災に関する特集、それと大江健三郎、マクルーハンなど世界文学を意識したような記事が並ぶ。雑誌の分厚さに呼応するテーマではある。
巻頭の文章には、例の大江健三郎の「飢えた子供の前で文学は可能か」という命題が引かれていた。今さらのことに、今さらながら驚く。その命題が未だ、震災後である現在でも生きているとは。
ただテレビを見ていただけの僕に、そんなことを言う資格はないだろう。だけど、ただテレビを見ていただけの僕にすら、そんなことぐらいわかる。津波の前で文学は不可能だった。水素爆発の前でも。餓えた子供の前で、文学が可能かどうか考えようとすること自体、どうかしてるんじゃないか。
要するに文学というのは、そういうところにあるものじゃない。寿司屋にすき焼き鍋がないのと同じ、自明のことだ。そんな現象面においても、文学という概念をひたすら普遍化しようとするのは、利権を広げようとする役人と変わらない浅ましさなんじゃないか。
もちろん文学は事態を総括し、意味付けする。本当にそれができるのは文学だけだ。けれども一朝一夕に、ではない。早稲田出身で詩人の荒川洋治が言う通り、「昨日聞いたことを今日書くな」。その事態によって時代が、人の感受性がどう変わったか、現れてくるのはもっとずっと先のことだ。
不定期刊なら、いっそ十年後に出せば、我々にとってのその意味が少しは明確になっているだろう。それまで待てない、時事として乗っからずにはいられない、というなら、それは文学の名に値しない。単にそういうことなのではないか。
だから、震災の特集の一角に「世界の被災地から」とあるのには、嘆息した。チェルノブイリ、チリ、インドネシア、ニュージーランド、四川といった場所での出来事について書かれた個々の文章が、無意味だというわけではない。しかし時間軸に沿ってなされるべき震災の意味付けの代わりに、「世界の車窓から」めいた空間的普遍化を試みるという編集意図は、あまりに呑気にうつる。
文学は、目の前にそびえ立つ津波の、また「原子炉の姿がひとつ、見えません」と叫んだ、あのテレビ音声の切迫感を持たない。餓えた子供の前に置かれたパンと争うことは、所詮できない。文学にとって真に切迫すべきものは、それらとはまったく別物だ。その違いすら感受する力がなく、時代が自ら語りはじめるまで待てもしない者たちが、遅れたテレビの真似をしたところで得るところはない、と思う。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■