「昭和文学ベストテン【評論篇】」という座談会を井口時男、辻原登、田中和生、富岡幸一郎というメンバーで行っている。五年前に【小説篇】を辻原登ではなく秋山駿が入って座談しているという。
小説の方はよくある趣向だが、それを評論に置き換えた今回の記事は、やや奇妙なものではあった。評論を批評してそれを選するわけだから、実際にはとてつもない批評能力を要することをやってているのだ。辻原登以外は批評家なのだから、その覚悟はあってしかるべきなのに、どうもこれといった緊張感がない。
吉本隆明、蓮實重彦、三島由紀夫らの評論に向けた、単なるファン投票にならざるを得なく、その雰囲気も漂っているが、選するからにはダメ出しもするわけである。で、その根拠がいかにも希薄なのだ。褒め言葉の根拠もまた、しかり。それならいっそ潔く手放しでファン・トークを展開したらどうだろう。
そもそも俎上に載る批評家の一人でもこの場にいれば、その批評家へのどんなコメントもいとも簡単に論破され、いやそれ以前に迫力負けして、ご意見伺いのインタビューと化してしまうことだろう。著名な評論集について上から目線で、その場のノリで何かしら意義のあることを言わせようと思う企画がどうかしている。少なくとも、ご当人の大御所に面と向かっては言えまいと思われることを発言すべきではない。そんなことぐらい、いやしくも批評家ならわかっているはずだ。
読者にしてみれば、たとえばこれが「吉本隆明の選んだ批評ベストテン」といった記事で、それに富岡幸一郎の書いたものが入っている、といったことなら、ほほう、という興味を感じられる。が、逆には関心の持ちようがない。「富岡幸一郎のベストテン」では、ネットなどに溢れている「僕の、わたしのベストテン」と大差がないからだ。
したがって読者がここから学ぶべき、啓蒙されるべきことは、批評家の「格の違い」というのはどこから生まれるのか、ということに尽きる。単に偉そうなことはさることながら、いずれかの対象について、ただ気の利いたことを言う人たちも、いまや巷にいくらでもいる。その人たちがリツイートされるぐらいで満足しているときに、どんな埋草太郎が批評家でござい、と胸を張れるのか。
一般的には、物書きの格を決めるのは「思想」のあるなしで、創作で言えばそれが生涯を通してのテーマということになる。その思想が血肉のあるもの、必然性を感じられるものであるとき、難解であろうと反論があろうと、人はどこかで納得して肯う。何にでも口をはさむ町内の小父さんがうるさいから、とりあえず頷いておくのとは違う。
それでもプロパーとして批評を、批評だけを日がな一日やっているのだ、と言うなら、風評や虚名に惑わされないぐらいのところはみせてほしい。ある一時期、柄谷行人が読む者を肯わせたのは思想ではなく、思想があるかのごとく振る舞うパロディ的思考からであって、アクロバティックな一種の「悪意」であった。いまやそれは基本的な読解力があれば、そのテキストから簡単に読み解けるはずだが、相も変わらず昔のままの評価を前提としておしゃべりしているのは情けない。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■