佐藤知恵子さんの文芸誌時評『No.008 オール讀物 2014年06月号』をアップしましたぁ。朝井まかてさんの時代小説『銀の猫』を取り上げておられます。老人介護が主題です。佐藤さんは「どうして現代社会の問題を時代小説で表現しなければならないのかと言うと、現代の問題のある本質をできるだけストレートに描くためですの。ほら、設定が現代になると、いろいろ生臭くなってしまうでしょう。ハリウッドのCG制作者が「人間のCGが一番作りにくい。恐竜は作りやすいよ。誰も見たことないからね」と言っているのと同じですわ。時代小説では現代小説につきものの夾雑物をかなり削ぎ落とすことができますの」と書いておられます。まあその通りですね(爆)。
純文学としての歴史小説の創始者である森鷗外は、『歴史其儘と歴史離れ』というエッセイを書き残しています。鷗外は史実に忠実であることの弊害にも、史実から大きく逸脱してしまう危険性に対しても敏感だったわけです。しかし歴史について鷗外のように思考する現代作家はほとんどいないでしょうね。現在書かれているのは鷗外的歴史小説ではなく、時代小説です。ある時代の枠組みを借りて、現代小説とほとんど変わらないフィクショナルな日常を描く作品が大半です。もしくは最低限の史実を援用して書かれる、相も変わらぬ時代活劇ですね。
大衆小説の場合、時代モノは読んでああ面白かったと感じるような時代小説でいいと石川は思います。でも現代モノ小説で行き詰まった純文学系の作家が、売れるかもしれないといふ淡い期待で、けっこう時代モノ小説の世界に参入して来ているんですね。でもこれがま~あきれるほどスカなんだなぁ(爆)。大衆文学のノウハウもなければ、純文学と呼ばれる文学的底力も感じられない。大衆文学であれ純文学であれ、作家がある確信を持っていなければ良い作品は生まれません。時代小説なら売れるといふほど甘くないのは言うまでもないことでありますぅ。
■ 佐藤知恵子 文芸誌時評 『No.008 オール讀物 2014年06月号』 ■