【公演情報】
公演名 『万作を観る会』(平成26年11月19日・22日開催)
会場 国立能楽堂
鑑賞日 11月22日(第二日目)
演目
〈三番叟〉(神楽式 双之舞)
三番叟 野村万作 三番叟 野村萬斎 千歳 野村裕基
大鼓 亀井忠雄 脇鼓 田邊恭資 小鼓頭取 大倉源次郎 脇鼓 飯富孔明
笛 藤田六郎兵衛
地謡 中村修一 高野和憲 月崎晴夫 内藤連 後見 深田博治 竹山悠樹
狂言〈佐渡狐〉
奏者 三宅右近 越後の百姓 高野和憲 佐渡の百姓 石田幸雄 後見 中村修一
小舞〈御田〉
野村又三郎 地謡 野口隆行 松田高義 奥津謙太郎
小舞〈景清 後〉
野村遼太 地謡 内藤連 高野和憲 中村修一 岡聡史
狂言〈痺〉
太郎冠者 野村万作 主 野村萬斎 後見 野村裕樹
狂言〈六地蔵〉
徒者 深田博治 田舎者 中村修一
徒者 岡聡史 内藤連 飯田豪 後見 高野和憲
今年の『万作を観る会』は野村万作の芸歴80年記念公演だった。11月19日と22日に行われた二つの公演では、野村氏が長年にわたって工夫を凝らした演目〈釣狐〉と〈三番叟〉のほか、豪華な出演者による魅力的な狂言演目が多く上演された。筆者が拝見したのは第二日目の公演のみで、この日の演目を中心に話を進める。
22日の公演は〈三番叟〉で始まった。〈三番叟〉は普段はお正月の能公演で演じられる儀式的な〈翁〉の一部であり、祝言であると同時に格が高い演目である。出演者が舞台に登場する前から観客席が静かな緊張感に包まれていたことも、この演目の特別な性質を示している。その上、通常は「三番叟」と「千歳」を演じる狂言師二人が登場するのだが、今回は「双之舞」という特殊な演出が行われ、野村万作氏と野村萬斎氏がともに三番叟の役をつとめた。面箱持ちの役は萬斎氏の息子、野村裕基に任された。野村家の三代が同時に舞台に立ったわけで、それが特別である〈三番叟〉をさらに特別なものにしていた。
舞を中心とする〈三番叟〉の特徴はリズムの速さである。能演目では音楽を演奏する囃子方は笛、大鼓、小鼓、太鼓の4人である。〈三番叟〉の囃子方は笛のほか、小鼓3丁、大鼓1丁、つまり5人構成になっている。囃子方の掛け声とともに、三番叟の役をつとめる狂言方の舞いは次第に速くなる。今回、二人がエネルギー溢れる舞いを披露する三番叟は迫力満点だった。二人の動きは一つになり、また別々に分かれてゆく。二人で一つになったかのような演者たちの身体は、絶妙な効果を生み出していた。万作氏と萬斎氏が一緒に舞った〈三番叟〉は、長年にわたって磨かれた芸の洗練を見せていた。
〈三番叟〉の後の狂言演目は互いを騙そうとする人間にまつわる物語で、狡猾で滑稽でもある人物たちが観客の笑いを誘った。
〈佐渡狐〉では、佐渡島には狐がいるかどうかという疑問を巡って越後の百姓と佐渡の百姓が言い争う。本当は狐はいないと知っているが、佐渡の百姓はどうしても負けたくない。判定を頼まれた年貢担当の役人に賄賂を贈って佐渡の百姓は言い争いに勝とうとする。
〈痺〉では、主が太郎冠者に和泉の境まで買い物に行くように命じる。しかし遠く離れた境まで行きたくない太郎冠者は、治りにくい足のシビリに悩まされているから、行けないと言い訳をする。
最後の演目〈六地蔵〉では、地元に堂を建立した田舎者が、そこに安置するための六地蔵を求めに都に出かける。都で仏師だと名乗る詐欺師に会い、彼に地蔵の彫刻を注文してしまう。詐欺師は三人の徒者に協力を頼み、三体の地蔵になるよう地蔵の姿勢を詳しく教える。最初に出来上がった三体の地蔵を見に来た田舎者は何も疑わずに満足そうに頷いているが、残りの三体も見たいという。徒者たちは素早く移動し、姿勢を変えて別の地蔵にならなくてはいけない。何回も繰り返される徒者たちの焦りと間抜けな姿が、観客の大笑いを誘っていた。
野村万作とその弟子たちが携わったこの公演には、万作氏独特の上品な狂言へのこだわりが感じられた。万作氏は人間国宝に認定されているが、狂言の心を探求しつづけ、その心を表現することに力を尽くした氏の芸は見事に洗練されている。
能楽とともに、狂言の芸は600年に及ぶ歴史をたどってきた。室町時代や江戸時代、近代にも通じる普遍的で根本的な「笑い」はあるだろう。しかし人間は変わり続ける存在であり、笑いの質も変化するはずである。現代人は何を面白いと感じ、何に笑うのか?万作氏はこのような問いをもって狂言の真髄を探求し続けている。氏が演じる狂言は古典的でありながら、現代人の感性をも意識した芸である。
今回の公演の見どころから一例をあげると、〈痺〉で太郎冠者が自分自身のシビリに声をかける場面がある。もちろんシビリは仮病である。「ヤイしびり、よう聞け。今晩伯父御様へ行けば、お茶の御酒のとあって、ご馳走になるほどに、直ってくれい、しびり。エーイ」という太郎冠者の言葉に、シビリは「ホイ」と返事をする(実際は太郎冠者自身が小声で答える)。主の命令に従えばご褒美があるという期待(自己暗示)でシビリは一瞬直るのだが、行き先が和泉の境だと分かると太郎冠者のシビリはまた痛くなる。どうしても憎めない太郎冠者の徒っぽさには、人間の子ども時代を連想させる無邪気さがある。それこそが狂言における笑いの特殊な味わいであり、この芸の最大の魅力だといえる。
とても躍動的でめでたい〈三番叟〉の後も、公演すべてが終わった後も、思いきり拍手したい衝動を感じた。拍手は元々、何かに対して喜びを感じた時に自然に起こる反応の一種である。しかし能楽堂という空間では、拍手を抑制するという昔から受け継がれた無言のルールがあるようだ。能楽の目ききや研究者たる者などは、能楽堂では拍手をしない(というような思い込みもあるらしい)。一方で役者さんにお話を聞くと、観客は公演が気に入ったら、もっと素直に反応してくれた方が嬉しいとおっしゃる方が少なくない。拍手したければ拍手すればいいのだそうだ。わたしも格の高い〈三番叟〉では拍手を抑えたが、公演すべてが終わった時には喜びの表現を抑えることができなかった。観客全員とともに、楽屋の出演者たちの耳まで届くよう、心ゆくまで拍手した。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■