田山了一さんのTVドラマ批評『No.069 すべてが F になる』をアップしましたぁ。原作は森博嗣(もりひろし)さんの小説で、フジテレビさんで武井咲、綾野剛さんのW主演でドラマ化されました。『すべてが F になる』はマンガやゲームにもなったヒット作です。作品世界が多面的で、それ自体、様々なアプローチができる小説素材でもあるわけですが、その分、ドラマ化のハードルは自ずと上がるでせうね。フジテレビさん、ハイテクミステリー系のドラマがお好きですけんど。
田山さんは、「ドラマが原作に対して取るべきスタンスを選ぶのは、あらためて難しいと思う」とお書きになった上で、『すべてが F になる』について「読者というものは大部の小説を読むうち、自身の内面を投影するかたちで登場人物の内面に奥行きを見い出すものだ。そして大部の原作であればあるほど、時間的・量的に制限のかかる映像作品は、その設定やプロットをなぞるのに精一杯という結果となり、そんな表層的な作品の読者たちからすら、「表層的」だと批判されるはめになる」と批評しておられます。
確かにそうなんだよなぁ。原作と映像作品の関係は難しいであります。マンガはまず絵ですからドラマ化しやすい面がある。でも『DEATH NOTE』のやうな長篇を100分くらいの映画にまとめようとすると、やっぱ〝設定やプロットをなぞるのに精一杯〟といふ結果になりがちです。小説原作の場合、マンガ原作よりもさらに工夫が必要になるでせうね。
また最近では、映画・ドラマ界では原作の内容をあまりいじらないのが主流のやうです。松本清張などの物故作家の作品でも、可能な限り原作に忠実であらうとする。それがちょっと原作アリの作品を映像化する際の足枷になっているやうな気がしますね。
小説作品が人間の内面心理描写を核とするのは当然のことです。しかし映像作品はそれを絵と必要最低限度の台詞に置き換えなければならない。その際、原作の内容を変えるという操作は、当然あってしかるべきなのではなひかと不肖・石川は思ひます。
黒澤明監督は映画『羅生門』を撮る時に、芥川龍之介の『藪の中』と『羅生門』をマージしましたが、さふいふことは、もう許されない時代になったのでせうか。小説を映像化するといふことは、その作家の世界観を表現することでもあるわけで、黒澤的手法は作家の世界観を活かすといふ意味で、いまだ有効だと思ふのですがぁ。
■ 田山了一 TVドラマ批評『No.069 すべてが F になる』 ■